図書館に予約していた『エクソフォニー』という本を、待つこと5日でゲットしたのです。
著者の『地球にちりばめられて』という小説を読んでいるところであるが、イラチな太子はさっそくこのエッセイ集を予約していたのです。
【エクソフォニー】
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多和田葉子著、岩波書店、2003年刊
<「BOOK」データベース>より
自分を包んでいる(縛っている)母語の響きからちょっと外に出てみると、どんな音楽が聞こえはじめるのか。母語の外に出ることにより、言語表現の可能性と不可能性という問題に果敢に迫る、境域の作家多和田葉子の革新的書き下ろしエッセイ集。
<読む前の大使寸評>
著者の『地球にちりばめられて』という小説を読んでいるところであるが、イラチな太子はさっそくこのエッセイ集を予約していたのです。
<図書館予約:(8/31予約、9/05受取)>
rakutenエクソフォニー
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「第一部 母語の外へ出る旅」で世界の20の都市が語られているのだが・・・
そのなかでハンブルグを、見てみましょう。
多和田さんの自宅がある町とのことです。
p71~73
<ハンブルグ:声をもとめて>
わたしはいつも他所の町に出掛けてばかりいて、あまりハンブルグの自宅にいる暇がない。原稿は電車の中やホテルで書いている。たまに十日くらい続けて家にいると、家にいるというのは本当にいいものだなあ、としみじみ思う。ハンブルグはヨーロッパの町の中で特に面白い町か、と聞かれたら返答に困る。ベルリンの方が面白いことは確かだろう。でも、ハンブルグがわたしにとって特別な町であることは間違いない。
日本を出てドイツに来た1982年からずっと暮らしているので、町を歩いていても、会社勤めの時代、学生時代など、いろいろな時期の思い出が重なりあって、いかにも「暮らしている」という実感がある。
最近わたしのように町から町へ移動し続けている人たちが増えた。そのような移動民へのアンケートが雑誌に載っていたが、「自分の町というのはどういう町か」という問いに対して「自分を知って入る歯医者さんと床屋さんがいる町だ」と答えている人がいた。「自分の自転車がとめてある町だ」と答えた人もいた。なるほどそうだ、と思う。
家にいる時は御前中、原稿を書いて、午後は散歩に行ったり、野暮用を済ませたりする。ただぼんやりとラジオやCDを聞いていることもある。音楽よりも文学の録音を聞いていることの方が多いかもしれない。
最近は本屋でもかなりCDを置いているところが増えた。いわゆる古典文学の朗読カセットだけではなく、スポークン・ポエトリーのようなものや放送劇、作者自身による朗読、音楽家との共演などいろいろある。実験的な声の芸術はもちろん最近の新しい現象ではなく、むしろフルクスス運動などの時代の方が盛んだったに違いない。ヤープ・ブロンクスのCDなどは、聞いているとその時代の匂いがする。
ブロンクスの朗読は70年代のものだが、扱っているフーゴー・バルの作品などはずっと古く1916年に書かれたものだ。圧巻なのは、ダダイストのトリスタン・ツァラの「叫ぶ」という作品の朗読で、この単語をブロンクスは410回、繰り返す。ドイツ語のbやrにはもともと恐ろしい振動と爆発がひそんでいるが、一回目からかなり喉を傷めるようなわめき声で始まり、もう限界ではないか、と思っても、まだまだ終わらず、聞いている方は我慢の限界にきて、早く終わらないかと密かに長いながらも恐いもの聞きたさでスイッチを消す決心はつかずに耐えているのだが、それでもブロンクスは叫ぶのをやめようとはせず、身体が裂けるほど力をこめ、このまま行ったら死ぬのではないかと思っても、まだまだ終わらない。声を出すということはこれほどすさまじいことだったのかと改めて感心する。
普段、「叫ぶ」「喚く」「怒鳴る」という単語を何も考えずに平坦に発音している自分がむしろ滑稽に感じられてくる。
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『エクソフォニー』3:森鴎外とドイツ語
『エクソフォニー』2:マルセイユ
『エクソフォニー』1:北京