図書館で『佐野洋子あっちのヨーコこっちの洋子』という本を、手にしたのです。
オフィス・ジロチョーさんがアンケートの集計結果をもとにこの本を作ったそうだが、とりあげた絵といい、エッセイといい、装丁も・・・ええでぇ♪
【佐野洋子あっちのヨーコこっちの洋子】
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オフィス・ジロチョー著、平凡社、2017年刊
<「BOOK」データベース>より
おとなから子どもまで世界中の人に愛されつづけている絵本『100万回生きたねこ』の作者、佐野洋子の人となりに触れるファン必携の書。絵本の絵や銅版画などの絵画作品、エッセイに書かれた生き生きした言葉とともに、多くの友人たちの証言を紹介、「人たらし」とも言われた佐野洋子の魅力にせまる。江國香織、唐亜明、亀和田武、山本容子のエッセイ収録。
<読む前の大使寸評>
オフィス・ジロチョーさんがアンケートの集計結果をもとにこの本を作ったそうだが、とりあげた絵といい、エッセイといい、装丁も・・・ええでぇ♪
rakuten佐野洋子あっちのヨーコこっちの洋子 |
唐亜明さんのエッセイを、見てみましょう。
p46~47
<100万回も北京の夢:唐亜明>
佐野洋子さんの名作絵本『100万回生きたねこ』の中国語版が、2016年で100万部を超え、中国の子どもたちに愛読されている。思えば、初版の2004年からの5年間は、1万部も売れなかった。ところが、経済成長に伴って絵本ブームが始まり、この本のおもしろさが広く知られるようになった。
北京生まれの佐野さんが52年ぶりに中国にいらしたのは、1999年だった。車が北京市内に入り、灰色の家々が目に入った途端、佐野さんは泣き出した。運転手さんが何事かと急ブレーキを踏んだ。声を出して泣き続け、隣りにいるぼくはどうしたらいいか困った。
佐野さんは6歳まで、「四合院」という様式の灰色の家屋に住んでいた。半世紀以上たっても、「小口袋胡同甲六号」という住所をはっきりと覚えていた。大人が仕事に出かけると、いつも中庭で空を眺めていて、「四合院」の空は四角く見えた。
四合院
ねこが塀の上を行ったり来たりしていた。家を出るのはめったに許されず、冬の路上に凍死者が横たわっていることもあった。中国人の男の子と大木の下で遊んだ半日は生涯の思い出になったという。
佐野さんとともに三度北京へ行った。記憶にあるチンチン電車の音、庭にあるナツメの木、門の外に四本の大木、付近に女子中学校があったというだけの手がかりで旧居を探し回ったが、同じ名称の路地がいくつもあって、とうとう見つからなかった。道路の拡張で取り壊されたようだ。佐野さんは家があったと思われる大通りに立って、両手を大きく広げ、「このあたり、全部、わたしの故郷だわ」と叫んだ。
(中略)
もう一回の大泣きは、北京郊外の農村を訪ねたときだった。佐野さんのお父さんがかつて満鉄調査部員として滞在していた村である。調査の成果をまとめた『中国農村慣行調査』(岩波書店)に出ている当時17歳だった楊さんが健在で、家に招いてくれた。83歳になった楊さんは、資料にある父と叔父の名前や自宅の様子をなつかしそうに見ていた。
奥さんは当時、日本人調査班にご飯をつくっていたが、若い女性が知らない男に会ってはいけなかったので、ずっと裏の台所で働いて佐野さんのお父さんの顔をおぼえていないという。15歳のとき、12歳の楊さんと結婚した纏足の奥さんは、台所から二本のスプーンをもってきた。調査班の日本人からお土産としてもらったそうだ。中国ではめずらしい木の柄で日本製だとわかる。「何度も引っ越したけれど、このスプーンだけは捨てなかった。使いやすくて、死ぬまで使うつもりだわ」というと、佐野さんは号泣した。
中国で過ごした幼少期は、佐野さんの人生の基本を定めたといえよう。北京の空気、水、食べ物が身体を育てただけでなく、その美感と創造力にも影響を与えたと思う。佐野さんの作品の特徴でもある率直さ、大胆さは、どれも大陸の風土の影がみえる。「100万回生きた」という表現でさえ、どこか「白髪三千丈」を彷彿させる。
北京がいつも夢に出てくるという。日本と中国、出会い、歳月、人生、探す、永遠・・・さまざまな深遠な意味は、『100万回生きたねこ』にこめられているのではないかと思えてならない。
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『佐野洋子あっちのヨーコこっちの洋子』2:一流の悪口:亀和田武
『佐野洋子あっちのヨーコこっちの洋子』1:山本容子さんのエッセイ