10月27日のNHK番組「あさいち」に増田セバスチャンさんが出ていたが、興味深いひとときでした。
・・・で、ネットを巡ってみたら、朝日新聞の「好書好日」がヒットしたので以下のとおり紹介します。
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増田セバスチャンさんインタビュー 衝撃的な「カワイイ」より
■キャリアのスタートは19歳
――増田さんといえば、きゃりーぱみゅぱみゅさんのMVがきっかけで名前を知った人も多いですよね。
きゃりーちゃんの「PONPONPON」が注目されるきっかけではあるけど、演劇や現代美術の世界で19歳くらいから活動を始めたので、アーティストとしてのキャリアのスタートはそれよりも20年ほど前なんです。寺山修司さんの考え方に影響を受けて、最初は寺山さんに影響を受けたという劇団に入りました。演出家になりたかったんですが、そこで制作や大道具、演者も経験しました。その後、現代美術家のお手伝いに誘われて参加しながら、自分でパフォーマンスグループを主宰して、そのメンバーと「6%DOKIDOKI」を立ち上げるんです。
6%DOKIDOKIも最初は食えなかったので、合間にテレビ局や歌舞伎座の大道具として舞台を作ってましたね。当時は演劇の活動に役立てばとは思っていたけど、それがまさかアーティスト活動の肥やしになるとは思っていませんでした。無駄なことはないんだ、何でもやっておくべきだなって。
――増田さんは原宿文化との関わりが強いイメージがありますが、出身は千葉県松戸市ということで、どういう経緯で原宿文化とつながったんですか?
絵が描けて、それ以外にもいろんなものを生み出して……小学生の頃は天才でしたね(笑)。でも中学生になると、僕たちの時代はヤンキー文化の全盛期で、周囲の人たちとなじめなかった。一方で、当時はホコ天やバンドブームの時代でもあり、特に原宿は独特の文化を形成していました。原宿は自分と似た感性の人が集まっているように思えて、よく遊びに行くようになったんです。
――当時の原宿はどんな街だったんでしょう?
以前は原宿駅前にテント村と呼ばれる屋台の並びがあって、手作りのアクセサリーや革ジャンなんかが売られていました。でも僕は、当時はお金がないから婦人服店でスカーフを買って巻いたり、代々木で拾ったジャージを着たり。今考えるとダサいですね(笑)。そうやって、みんなよく分からないファッションをしていました。竹下通りを抜けて明治通りを越えた裏原エリアは中学生からすると実はカツアゲされやすいスポットだったんです。だから怖い街というイメージ(笑)。歩行者天国の竹の子族やバンドを見るために、竹下通りにあった半地下で野宿したのも思い出です。
――当時からユニークなエリアだったんですね。ただ、そうした文化の根本みたいなものは、今と変わらないようにも思えます。
そうですね。学歴や年齢も関係なく自由でいられる雰囲気は当時からありました。
■原宿なら自分を理解してくれる
――今では原宿に対して、増田さんの作品に近いイメージを持つ人は多いと思います。そのイメージを増田さんが作っていったという感覚はありますか?
19歳からそれこそいろんな場所で活動をしていたけど、思うように評価を得られなかった。そんな中で1995年、25歳で原宿に「6%DOKIDOKI」という雑貨とアパレルのお店をオープンして、お店は次第に知られる存在になっていきました。90年代に起きた裏原ブームの中心は、「UNDERCOVER」や「A BATHING APE」のようなメンズカルチャー。当時の裏原は、乾物屋さんや定食屋さんなどが集まる裏通りの商店街で、家賃が安かった。そこにお金がない若い人たちが集まってお店を出していったんです。それでメンズカルチャーに火がつき、やがて雑誌の「Zipper」や「CUTiE」などでガールズカルチャーも盛り上がっていくタイミングで、「6%DOKIDOKI」の表現がマッチしたんでしょうね。
90年代当時、通ってくれていたのは芸能人だと篠原ともえちゃんや千秋ちゃんとか。時代のアイコンとなる女の子が僕のテイストに触れて、それがメディアを通して広がり、原宿のイメージがついてきたように思えます。だから実際は、ストリートの子たちが、原宿で生まれたそれまでにないものを取り入れることで、時代を作っていったんだと思います。
一方でその頃の僕は「6%DOKIDOKI」が支持されるようになったものの、やっぱり作品を作りたい衝動に駆られて、じゃあどこで発表しようかと。それで、原宿の人たちだったら自分のことを理解してくれるんじゃないかという希望を抱いて、原宿をメインにアーティスト活動するようになりました。
――当初はなかなか評価されなかったということですが、どんなことをしていたんですか?
90年代、20代前半の頃にやったのは、1トンの生クリームで巨大なケーキを作って、その上に女の子を立たせておもちゃの車で突っ込むとか。場所はライブハウスやクラブ。パフォーマンスアートと呼ばれる作品が中心ですね。
――いや、おもしろそうじゃないですか。
たくさんの人が集まってくれたし、実際に楽しんでくれていたと思います。ただ、評論家ウケがすごく悪かったんです……。パフォーマンス後に美術評論家に呼ばれて「こんなのがアートなら日本はおしまいだ!」って1時間ぐらい説教されたり。雑誌で2ページに跨いで酷評されることもあったし、非難の手紙が届くこともありました。まだどこかに残っているから、僕がもっと大御所になったら公開しようかな(笑)。とにかく、最高で新しいことをやっているはずなのに、アートの文脈の人からはちっとも受け入れられない。僕としては、作品を通してみんなを驚かせるという、子供の頃から変わらず楽しいことをやっていたかっただけなんです。でも「幼稚」だとか「アートじゃない」とか言われて、自分は才能がないんだと悩みましたね。
90年代は、モノクロで機械を使うようなかっこいいテーマが流行っていたのも関係しているかもしれないですね。それでも僕は子供の無邪気さや好奇心ゆえの残虐性みたいなのが好きだった。小さい子って無邪気にアリやカエルを潰すじゃないですか? 残虐だけど衝動があって、そこにクリエイティブの源があるような気がする。当時から、それを大人の目線でやりたいと思っていたんです。
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ウン、とにかくクリエイティブではあるなあ♪