図書館で「ガダルカナル島の近現代史」という本を手にしたのです。
著者はかなり中国嫌いのようで・・・私の腑にもストンと落ちるようです。
【ガダルカナル島の近現代史】
内藤陽介著、扶桑社、2020年刊
<「BOOK」データベース>より
中国の札束外交にソロモン諸島は陥落寸前!日本軍の撤退後、悲劇の激戦地はいかなる歴史をたどり、中国はどのように浸透していったのか。切手や郵便物を資料とする“郵便学”で読み解く!
<読む前の大使寸評>
著者はかなり中国嫌いのようで・・・私の腑にもストンと落ちるようです。
rakutenガダルカナル島の近現代史 |
「第四章 そして再び、ガダルカナルは最前線になった」で、ソロモン諸島が台湾と断交したあたりを、見てみましょう。
p251~2
<むすびにかえて>
ソロモン諸島が台湾と断交した直後の2019年9月20日、ソロモン諸島の東方に位置する島国、キリバスも台湾と断交した。
現在のキリバス国家は、ギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島の伊津部などを領土としており、その範囲は赤道付近に約3800平方キロにも散らばっている。このうち、中核をなすギルバート諸島は、1765年、ドルフィン号のバイロン司令官が南東部の島ニクナウを発見。1788年には、英国海軍のシャーロット号のトマス・ギルバート艦長とスカバロー号のジョン・マーシャル船長が、オーストラリアへ囚人を移送した帰路、アパママ、クリア、アラヌカ、タラワ、アベイアン、ブタリタリ、マキンを発見した。ギルバート諸島の名は、このギルバート艦長に由来する。
1892年5月27日、ギルバート諸島は隣のエリス諸島とともに英国の保護領となり、1916年には“ギルバート&エリス”として英国植民地となり、その首府がタラワに置かれた。
1941年12月8日の日英開戦に伴い、日本軍はマキン環礁のブタリタリとタラワへの攻撃を開始し、12月10日に占領する。しかし、1943年、アリューシャン、ソロモン諸島方面で勝利を収めた米軍は、中部太平洋の拠点を確保すべく、11月20日、海兵第二師団がタラワとブタリタリに侵攻。この島を要塞化した日本軍と壮絶な戦いを展開してギルバート諸島を制圧した。その後、ギルバート諸島は1944年2月以降、日本の委任統治領だったマーシャル諸島後略の拠点として使われることになる。
1945年の終戦後は英領ギルバート&エリスとして復帰。1971年には自治領になったが、ギルバート諸島ではミクロネシア人が多数派を占めていたのに対して、エリス諸島ではポリネシア人が主流と民族構成が異なっていたため、1974年、住民投票で両者の分離が決定。1978年にエリス諸島がツバルとして独立すると、翌1979年、ギルバート諸島は米領フェニックス諸島およびライン諸島を統合してキリバスとして独立した。ちなみに、独立後の国名となったキリバスは、ギルバートの現地語読みである。
かつて、キリバスにはリン酸塩の鉱床があったが、1979年の独立とほぼ同時に枯渇。現在の輸出産業は、コプラ、観賞用魚や海草などが中心である。また、近年の海面上昇で国土の半数以上は水没の危機にあり、2007年、キリバス政府は全国民の他国への移住計画を発表。当時のアノテ・トン大統領は、国民の熟練労働者として移住させるため、日本、米国、オーストラリアなどに職業訓練の支援を呼びかけたが、各国のキリバス政府の期待に十分応えるものとはならなかった。
こうした背景事情もあって、キリバス経済は慢性的な苦境に陥っており、近年は、国家予算の約50%を、日本、オーストラリア、ニュージーランド、台湾からの支援に頼らざるを得ない状況が続いていた。このため、中共が札束攻勢を展開して台湾との断交を迫ってきた時、キリバス側にはこれを受け入れる素地が十分にあったのだ。
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「ガダルカナル島の近現代史」3:中共の南太平洋進出
「ガダルカナル島の近現代史」2:英国の杜撰な対日戦準備
「ガダルカナル島の近現代史」1:はじめに