図書館で『教科書には載っていない!明治の日本』という文庫本を、手にしたのです。
この本の目次を見れば・・・どの歴史的事例も、そんな取り上げ方もあるのか♪と興味深いのである。
【教科書には載っていない!明治の日本】
![](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/0fbb4c4e51d3afea592602e5cc2a2b35b5d5433e.26.9.9.3.jpeg)
熊谷充晃著、彩図社、2014年刊
<出版社>より
「明治時代」の表から裏まで、余すところなくご覧頂く。
過剰なまでのエネルギーを放つ“19世紀の私たち”の奮闘を心ゆくまでお楽しみ頂きたい。(「はじめに」より)
<読む前の大使寸評>
この本の目次を見れば・・・どの歴史的事例も、そんな取り上げ方もあるのか♪と興味深いのである。
rakuten教科書には載っていない!明治の日本
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第一章「明治日本の意外な姿」から武士の商売を、見てみましょう。
p54~57
<困窮した士族たちの「武士の商売」>
■生き残りを駆けたお茶の栽培事業
武士の世が終わりを告げ、新しい世が始まりつつあった明治時代初期。
ちょんまげ、刀だけではなく、階級そのものまで喪失してしまった武士たちは、武力に頼ることなく生活の糧を得なければならなかった。しかし、所詮は「武士の商売」。経済活動とはほとんど無縁だった彼らが、すんなり成功できるほど甘くはない。
凍死者や餓死者が続出し定着に至らなかった北海道開拓事業の一部が代表的だが、沿岸部での昔ながらの手法による製塩事業や、浪士による石油発掘事業など、多くの「武士の商売」は、成功とは言いがたい結果に終わった。
そうして食い扶持にも事欠くような困窮士族が全国にあふれるのだが、廃藩置県後の静岡県は特に、その数が多かった。全国一の石高を誇っていた徳川宗家は静岡に移封され、250万石ともいわれる領地が70万石と、実に3分の1程度に激減。
旧幕臣に対する待遇を維持できないのはもちろん、養う人数自体を削減せざるを得ない状況に陥った。リストラされた旧幕臣は新天地に赴いてはみたが、後ろ指を指されて迫害にあう者、様変わりした生活に馴染めない者などを中心に、続々と静岡県に再集合する。そこには旧幕臣として、徳川家と運命を共にする覚悟をした者もいれば、行き場がないから仕方なく出戻った者もいた。
どんな背景があるにせよ、明日の食い扶持を稼ぐ必要があるのは、皆一緒。そこで彼らの生活を守るため、藩主導の救済事業が展開されることになる。その中で、現在まで脈々と続く成果を挙げたものが、お茶の栽培事業だ。江戸時代から茶の産地として知られていた静岡県だったが、明治に入ると困窮士族たちを救済する手段として拡大されていく。
まだ幕府と薩長が戊辰戦争を戦っていた時代、上野戦争で散った彰義隊と同時期に、剣豪として知られる幕臣・山岡鉄舟らが結成した「精鋭隊」という組織がある。
水戸に謹慎する慶喜の恭順路線に従った一団だが、「新番組」という名に改組してすぐに、静岡での窮乏生活を見越し、1869(明治2)年に静岡県にある牧之原台地の開墾を願い出て、藩庁から許可されている。
隊の名前も開墾方に改め、山岡とともに結成時に隊頭を務めた中條金之助をはじめ、200人ほどが茶の栽培に挑戦することになった。翌年には彰義隊の生き残りの一部が合流し300戸ほどの開墾集団になっている。
もっとも、実際に開墾するのは武士たち。即席の農民による事業は遅々として進まなかった。最初に拝領した開墾用地は1425町。対して1878(明治11)年に開墾を終えていた土地はたったの211町。しかも開墾に従事する戸数は100戸近くも減ってしまった。
それでも、武士の帰農チャレンジとしては成功の部類で、牧之原台地は今も県下有数の産地として知られる。
背水の陣を敷いた旧幕臣たちが見せた意地と努力は、成果を見るまでに時間はかかったものの「武士の商売」として結実したのだ。
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『教科書には載っていない!明治の日本』1:明治の選挙戦