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パワースポット@神の島「Okinawa」

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2023.05.28
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カテゴリ:本部町

(西の御嶽/宮鳥御願)

沖縄本島北部にある「本部/もとぶ町」の西側に周囲7.3キロ平方メートルの「瀬底/せそこ島」があります。この島の住民は「瀬底島」を「シマー/島」と呼びますが、対岸の本部半島の人々は「シーク」または「シスク」と呼んでいます。国道449号線から「瀬底大橋」を渡った場所にある「瀬底島」の西側に「瀬底ビーチ」があります。この浜の南側には「西の御嶽/イリヌウタキ」の森が佇み、別名「宮鳥御願/ミーヤトゥヤウガン」と呼ばれています。この御嶽は1913年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『ヨネフサキ嶽 神名 カネマツ司ノ御イベ』に相当すると考えられます。「瀬底集落」の西側約900メートルの場所にある「西の御嶽」は木々が生い茂る一帯に2〜3メートルの窪地にあり、御嶽の周囲は石灰岩の口の広い洞穴となっています。この拝所には「ノロ/祝女墓」の他にも洞穴内に4つの古墓が祀られています。


(初代瀬底ノロ墓)

(呂氏仲程瀬底一世の石碑)

(洞穴内の古墓)

(洞穴内の古墓)

「西の御嶽」の「ノロ墓」は破風型のコンクリート製で、石碑には「呂氏仲程瀬底一世 昭和十一年四月建立」と記されています。この古墓には「瀬底村初代公儀ノロ」が祀られていると伝わります。葬られた祝女は若い頃から公儀ノロを務めた美女で、旧暦五月三日に穀物の豊作祈願を行う「ティラムヌメー」と呼ばれる祭祀の前に「トールマイ浜」にて身体を清める洗い髪をしていました。その時、以前から沖に停泊していた鹿児島船の船乗りに暴行され、ノロは「宮鳥御願」の森に逃げ込み身を隠しました。ノロは暴行した船乗りに『残波に行けば、お前達の船は破れてしまえ』と手を合わせて船乗りに呪いをかけたのです。その後、天候が回復して船を出したところ残波で船は難破して船乗りは全員死亡し、ノロはそれを見届けた後に洞穴で自ら命を絶ったと言われています。その骨神がこの「西の御嶽」の古墓に祀られていると伝わっています。


(宮鳥拝所)

(宮鳥拝所の石碑)

(宮鳥拝所の祠内部)

(宮鳥御願の竜宮神)

旧暦五月の「ウフウグヮン/大御願」ではその昔、ノロ墓から骨を出して洗い清めていました。この骨洗いは「ミススイ/御洗清」や「スン」と呼ばれ「瀬底集落」の「仲程門中」が担当してきました。この「ウフウグヮン」は「七ウターキ/御嶽」の祈願で麦の豊作と村人の健康と繁栄を願います。現在はノロや神女達が集落にある七ヶ所の御嶽を巡り大豆九升・酒三合・線香二十五束を供えます。その昔は徒歩で巡っていたため一日がかりの行事となり、道中は供物を小使いの少年が担いでいたと伝わります。「宮鳥御願」の森には「宮鳥拝所」の祠があり、内部には三体の霊石と三基の石造りウコール(香炉)が祀られています。また祠の脇には「宮鳥拝所 一九九二年八月吉日改築」と刻まれた石碑が建立されています。この祠から浜の方向へ進むと「竜宮神」の拝所があり「竜神」と記された石碑、形の異なる三基の石造りウコール、一体の霊石、シャコガイの貝殻が海に向かって祀られています。


(サンケーモー/三景毛)

(大底門中/大城家の拝所)

(大底門中/大城家の拝所)

「瀬底集落」では旧暦五月と九月の「ウフウグヮン/大御願」の行事に「七御嶽」が拝まれます。参拝の最後に集落の南側にある「サンケーモー/三景毛」と呼ばれる小高い丘に行き「瀬底島」の西側にある「水納/みんな島」に向かって神人全員が拝みます。この行事は「水納島」にある「メンナの御嶽」へのタンカー(御通し)だと言われています。この「サンケーモー」には「大底門中」の拝所があり、この門中の「大城家/屋号ウフジュク」は「瀬底集落」の「ニーヤ/根屋」で、集落で最も古い約500年余りの歴史を持つ旧家です。「大底門中元祖由来記」には「大底門中」は第一尚氏「尚巴志」王統の「北山監守今帰仁按司」で、数代に渡り「山北今帰仁グスク」に駐在して山北諸郡を統治していました。第七代「尚徳王」が滅亡した時に「北山監守今帰仁按司」の子孫の1人が「瀬底島」に移り住み、村を創建して「瀬底集落」の草分けとなったと言われています。


(上間門中拝所の石柱)
(上間門中拝所の石柱)

(上間門中拝所)

(仲田門中拝所)

「サンケーモー」には他にも「上間門中/上間家/屋号アガーリ」の拝所があり、別名「シークウェーキ」とも呼ばれています。伝承によると「上間門中」の始祖である「細工大主」は「瀬底島」に渡って来た当初は「アンチ浜」の海岸丘陵にある「カンジャーガマ」でカンジャー(鍛冶屋)をしていました。当時は士族や農民にとってカンジャーは重要で島民に重宝され、貯めた蓄えで土地を購入し「瀬底集落」に住居を構えるようになったと伝わります。第二世から第五世までは「本部間切地頭代役」を務めて「健堅親雲上/キンキンペーチン」と呼ばれていました。第二尚氏「尚円王」の子である「山内親方」のお供を若い頃からしていた第二世は中国の清に渡り、土地神(農耕神)である「土帝君」の木像を持ち帰り「瀬底島」に祀るなど豪農と慈善事業家として知られていました。また「サンケーモー」には集落で第三の旧家である「仲田門中」の拝所も設けられ、石碑の前には「首里」と「津嘉山」の石柱が建立されています。


(前の御嶽/南の御嶽)

(前の御嶽/南の御嶽の祠)

(前の御嶽/南の御嶽の祠内部)

(前の御嶽/南の御嶽の森)

「前の御嶽/メーヌウタキ」は「瀬底集落」の南西の方角に約500メートルの場所にこんもり茂った「ウチンメー」と呼ばれる小丘陵にあります。別名「南の御嶽/へーヌウタキ」とも言われるこの御嶽は「瀬底島」の拝所の中で最南に位置しています。コンクリート製の祠内部には三体の霊石と一基の石造りウコール(香炉)が祀られています。以前は赤瓦屋根の祠でしたが、昭和40年代に現在の姿に建て替えられました。「前の御嶽」は「瀬底の七御嶽」の一つで「国守りの神」が祀られているとの伝承があり「瀬底島」を守護する御嶽であると考えられています。旧暦五月と九月の「大御願」の際に拝される「七御嶽」の最後に参拝される拝所として知られています。ちなみに旧暦五月の「大御願」では「瀬底ノロ」や神女等により麦の豊作祈願、村人の健康、村の繁栄を祈願し、九月の「大御願」では豆の豊作祈願、村人の健康、村の繁栄が祈祷されます。






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最終更新日  2023.05.30 07:21:44
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