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JINさんの陽蜂農遠日記

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2016.11.01
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カテゴリ:国内旅行

東繭倉庫を抜けて右手に曲がると、検査人館、女工館、診療所の建物が続く。 

tomioka15_R.jpg 

検査人館(けんさにんかん・重要文化財)。

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1873(明治6)年築。元々は生糸や機械の検査を担当したフランス人男性技術者の住居。

後に事務所に転用され、2階には皇族や政府の役人が訪れた際に使用する貴賓室があるが

非公開。

建物の正面は事務所として使用するため改装されているが、側面は竣工当時の、

洋風建築の面影を残している。

この建物は現在管理事務所として使用されていて、一般の見学者は立ち入り不可。

DSC04408_R.JPG

女工館(じょこうかん・重要文化財)。

img_0[1]_R.jpg 

この建物は、日本人工女に器械による糸取りの技術を教えるために雇われた

フランス人女性教師の住居だった建物。主屋は方形屋根の桟瓦葺。

外付けの階段を上った2階にはベランダがあり、その天井には板が格子状に。

後に多くの明治の洋館で見ることができるようになったが、この当時の日本建築では珍しい。

国の重要文化財の木骨煉瓦造り、2階建て。1873(明治6)年竣工。
 

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繰糸所(国宝)。

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繭から糸を取る作業が行われていた建物。

長さ約140mの巨大な工場で、創設時にフランスから導入した

金属製の繰糸器300釜が設置され、世界最大規模の器械製糸工場。 

明治政府は製糸場設立のための外国人指導者としてフランス人のポール・ブリュナを雇用。

ブリュナはフランスから技術者を連れてくるとともに、洋式の機械を日本人の体格に

合うように改良したものを注文して取り寄せたと。

建物の設計は 横須賀製鉄所建設に携わった同じくフランス人の

オーギュスト・バスティアンが担当したのだ。

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電気を使わなくても明かりが採れるような天井作り。

屋根の上に蒸気抜きの越屋根が取り付けられていた。

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こちらも小屋組みにトラス構造を用いることで建物の中央に柱のない

大空間となっていて、見ごたえ十分。  

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面白いのが、ボルト。今では六角ボルトが標準ですが、なんと四角!

明治初期の当時はまだ六角ボルトはなかったのでしょう。

これで時代が分かるのでした。

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「ニッサン HR 型自動繰糸機」が昭和 39 年に開発され、この富岡製糸場で

昭和41年ごろから順次設置、改修されながら昭和62年3月の操業停止まで

動いていたものであると。

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ズラーっと並んだ、歴史ある繰糸機はビニールシートで保護されていた。

DSC04424_R.JPG

製糸場の屋根のトラス構造の説明サンプル。 

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女工さんが熱湯の鍋から繭の糸口を素手で探して生糸を引き出す様子。

蒸気がもうもうと立ち上る繰り糸場で、結核に罹る女工さんもいたのだと。

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自動繰糸機概要図。

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一番下に給繭機、そして回転接緒器、その上に集諸器。

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更にその上に、糸を巻き取る緑の小枠。

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技術伝習工女として15歳〜25歳の若い女性が募集され、彼女たちは

技術習得後、それぞれの地元で指導者として活躍した。

当時の工女の日常を記した「富岡日記」その元となった回想録の著者である

横田(和田)英の写真。

DSC04430_R.JPG

診療所(3代目)。 

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ブリュナ館(重要文化財)。

横浜で生糸の輸入の為、生糸の検査人だったポール・ブリュナの企画指導のもと

横須賀造船所の技師バスティアンの設計で日本の大工が施工したのが富岡製糸場。

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指導者として雇われたフランス人ポール・ブリュナが妻と子供たちと暮らした住居。

建物は木骨煉瓦造で建てられ、高床で回廊風のベランダを持つ風通しの良い解放感ある

つくりになっていると。

床下には、当時造られた煉瓦造りの地下室が現在も残っているのだと。

明治6年築 建坪320坪。

この日は雨樋の更新工事が行われていた。

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病室。 

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片倉製糸紡績会社(片倉工業)の時代に建てられたもの。

渡り廊下で診療所や病室をつないでいた。いずれも木造平屋建て。

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蚕種(さんしゅ)製造所跡。 

南東隣接地に、併設の蚕種製造所があったとのこと。

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レンガ積み排水溝。 

敷地内からは下水施設の跡も出てきている。

繭を煮た水は汚れているため、地下を通る排水溝を通って鏑川に排出されていたと。

地下を通すことで衛生面に気を使い、独特の臭いが広がるのも防いだと。

もちろん明治初期の当時は川の水質・環境汚染よりは従業員の健康優先なのであった。

そして雨水用排水溝として現在も使用されているとのこと。

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製糸場下には鏑川(かぶらがわ)が。

日本の工業化を支えた製糸場の建設場所として富岡市が選ばれたのも、

この豊富な鏑川の水が理由の一つだったと。

工場内には6基のボイラーが設置され、5基は繭を煮る湯を作るために、

そしてもう1基はフランスから輸入された蒸気エンジン「ブリューナ・エンジン」を

回すために使われていた。

1920年(大正9年)に動力源は電気モーターに切り替わったが、

大量の湯が必要なことは変わらず、製糸場には水が不可欠。

鏑川の豊富な水と、安定して供給する努力が製糸場の操業を可能にしたのだと。 

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ブリュナ館を鏑川側から。

桟瓦葺きの寄棟屋根をもつ巨大な住宅で、一家族用としては望外の規模。

ブリュナが明治9年に帰仏した後は、寄宿舎や工女に読み書きや和裁などを教える夜学校、

後には片倉富岡高等学園の校舎として利用されたとか。

建物は長大な高床式で周囲に回廊風のベランダをもつ風通しが良く、開放感のある設計。

なお、説明書によると、床下には、建設当時に造られた煉瓦造りの地下室が現在も

残っているのだと。

ただし、校舎や講堂として使うために内部は大幅な改造が加えられ、当初の面影は

少ないと。国の重要文化財の木骨煉瓦造平屋建、高床式。 

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榛名寮。 大正7年築。

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ブリュナ館の南西に3棟の寄宿舎が。

ブリュナ館の西に隣接するのが榛名寮。明治期に建てられた洋風建築。

当初の工女寄宿舎老朽化に伴い新しく建てられた二代目の寄宿舎。

各部屋が20畳以上の大部屋になっているとのこと。

元々新築されたものではなく、2階建の古民家(養蚕農家)であった前身建物を

転用したものと想定されると。木造2階建て。

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寄宿舎(浅間寮、妙義寮) 

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その西側には、1940年(昭和15年)に、太平洋戦争終戦前に建てられた写真左側の

浅間寮(あさまりょう)と、写真右側の妙義寮(みょうぎりょう)が。 

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これらは片倉製糸紡績会社の時代に建てられた女子寄宿舎で、ともに梁間7.3m、

桁行55.0mの木造2階建。北に廊下が付く片廊下式で、部屋は一室15畳で、部屋数は

1棟16部屋計32部屋。各棟2階東端に娯楽室が設けられていると。

布基礎(ぬのぎそ)はセメント分が少ないコンクリートが使用されていて老朽化が

激しいのだと。 

布基礎とはTの字を逆にした断面形状の鉄筋コンクリートが、連続して設けられ

建物を支えている基礎のこと。

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富岡製糸場が世界遺産に登録された理由は、日本の近代化だけでなく、世界の絹産業の

技術革新にも貢献したこと。そして世界最大規模、抜群の生産能力を誇った工場が

ほぼ完全な形で残っていることが認められ、絹産業を構成するほかの3カ所とあわせて

登録されたのだ。

保存状態がよかったのは、富岡製糸場が操業停止後も「売らない、貸さない、壊さない」の

3原則で守られたからとのこと。

年間の維持費は約1億円、富岡市に移管するまで持ち主の片倉工業は18億円をつぎ込んだ

計算になるのだと。 

群馬県は、この富岡製糸場の歴史的価値を伝え広めるとともに、様々な世代に

世界遺産登録に対する理解を求める働きを続けているとのこと。

自分たちの眼の前にある世界遺産のことをよく学びその由緒や価値をよく知ること

そしてその遺産の価値を世界の人々に、そしてずっと後の幾世代までも伝える責任は

今を生きる我々にあるのだと今更ながら実感したのです。

 

現在日本国内の世界遺産は16件の文化遺産と、4件の自然遺産の合計20件が

登録されています。

今回で、私が未だ全く行った、そして見たことのない日本の世界遺産は残り3箇所のみ。

1)屋久島 2)小笠原諸島 3)明治日本の産業革命遺産

さてさて、この距離的にも遠い3件を訪ねる日が来るのでしょうか??  

 






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Last updated  2018.02.20 21:36:35
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