臓器移植法案改正
このところ梅雨明けのような天気。さすがに来週からは雨の予報が出ていますがどうなるのでしょうね~、今年の梅雨は。 ネットのニュースで臓器移植法案成立を知ったのですが、当いおり鍼灸院のホームページでも明記しているとおり、当院では臓器移植には反対の立場をとっています。 その主な理由。 1.脳死を人の死とするかどうかの論議が尽くされていないこと。 2.脳死判定の基準が各国によって異なっていることの理由がきちんとなされていないこ と。 3.脳死と診断された妊婦が正常に分娩出産して新しい生命を産み出していること。 4.脳死判定後に社会復帰を果たした人がいること。 5.人間の死が、一部の元に戻らない臓器の異常(不可逆性)によってもたらされるという のなら、他の臓器がんの末期でも死とするのか。 6、客観的な意識の有無だけで、死を迎えようとしている、その人の主観的な内面は、その 人本人にしかわからないのだという認識の欠如。(僕は意識のあるうちに死を宣告され て、その後臨死体験をしているので実感として訴えたいものがあります。) ネットでニュースを見た後、テレビでそのニュースを見たのですが、移植で助かる命と脳死を人の死とすることの是非が混同されている理論的整合性の欠如に今更ながら驚いてしまいました。 これは別々の問題として分けて論議されるべきものです。 脳死判定の基準が各国で異なることはさておいて、移植医療が盛んにおこなわれているアメリカにおいても、脳死判定後に意識を取り戻した人がいることも報告されています。 日本においても、脳死判定後、移植手術が始まるや否や血圧の上昇と、やはり暴れることが確認されています。 アメリカでも日本でも、移植手術時には麻酔が使われていることを知ってください。真に脳死が人の死であるならどうしてこのようなことが起きるのでしょうか。(臓器移植医は、単に反射と言っています) 内面的な意識があるのか、ないのかはその本人でしかわからないのに、麻酔で動けなくしておいてお腹に刃物を入れて臓器を取り出す・・・僕は想像しただけで恐ろしいです。 現代医学(西洋医学)は客観性の医学です。 本人がどれだけ苦痛を訴えていても、客観的に写真や数字になって現れないと治療はおろか気のせい、精神的なものとして扱われます。 脳死と判定された人の内面で、何が起きているのかはその人本人にしかわからないのです。 生まれて来ることと死んで行くこと。 ついこの間までは当たり前に目にしていたことが、どんどん日常生活から離されて行ってます。 心停止、呼吸の停止、瞳孔の散大。 人類が誕生してきて以来、どんな人でも認知できるこの死の三大兆候を私たちの手の届かない専門家の手にゆだねていいのでしょうか。 三大兆候が確認できても、お通夜に見られるように蘇生するケースがあったからこそ一晩中亡くなった人を見守っていたのです。 ちなみに、僕にもこの度赤ん坊が生まれたのですが、まだ体重曲線から大きく外れていてとても小さいのです。 産科医師は、心臓の異常と奇形を疑って検査したらしく、今後も経過を見る必要があると言われたそうです。 でも僕たちは、専門家の手を離れて赤ん坊を楽しみながら見守って行くという選択をしました。 僕は後から知ったのですが、そりゃ~子どもに先天性の異常が見つかれば途方にくれると思いますし経過を見る必要があるって言われただけで不安になることもできます。言葉にできないほど赤ん坊はかわいい。どこの親御さんも同じだと思います。 もし異常が見つかって、移植でしか助からないと言われたとしても僕は移植医療以外の方法で生きる道を探ります。 手前味噌ですが、東洋医学的には脳は生命の中枢ではありません。もっともっと全体的・エコロジックなものです。 生命とは、人間の五感と第六感で温かく生きているって実感するものです。決して客観的に数字で判断するべきものではないのです。 ましてや、一般人の手の届かない専門家の手にその判断をゆだねるべきでない。万人の認知できる納得のいく領域にしておくべきだと、僕はそのように主張します。 いおり鍼灸院では「脳死・臓器移植に反対する関西市民の会」に賛同しています。 詳しくはこちらを→ 「脳死・臓器移植に反対する関西市民の会」 「20年前だったら救命できなかった重症脳不全患者が、脳低体温療法で救命されている」 でもドナーカードを保持していると、このような医療が受けられていません。 現にみずみずしい臓器を確保するために、全身が浮腫を起こし脳圧が上がるような脳死判定を促すような処置がなされています。 死の先取りはあってはあってはならないことです。 どうかみなさん、世の流れは移植医療に大きく向ってますが、きれいな言葉に惑わされず賢明な選択をなさってください。