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テーマ:舞台(13)
カテゴリ:山
桜田門外の変の実行部隊の指揮者、関鉄之介は、成就後の召し捕りの幕府令に追われ、水戸藩内を転々とし、八溝山を超えて、那須、越後に入り、湯沢でとらえられたと、吉村昭の小説にあった。
大子は、斉昭の軍事訓練の演習地でもあり、袋田村は、鉄之介が殖産振興に勤め、支援者を得た地でもあったと読んだ。そして、変後には、追ってを逃れ潜伏した地でもあったと。 変後、四年して、天狗勢が、筑波山で挙兵し、日光の占拠をめざして行軍するも、各藩の警備増強にかなわぬと諦めた後、太平山に駐屯したとあった。 ![]() その後、この地で焼き討ち暴虐をはたらいた田中愿蔵隊を除名して軍紀を整え、鎮圧に派遣された幕府軍に対しては各地で戦闘に勝利した後、本格的に隊形を整え、京の慶喜を慕って攘夷に発つのが、大子の地とあった。 除名された田中隊は、八溝山に立て籠ることを企てるも、食料難のために山頂の神社で解隊、離散し、各地の天狗狩りで捕縛され、処刑されたとあった。 四月に訪れた大子は、花が咲き、清流が輝くのどかな田園地帯が長く続いていたが、さらに奥まった先の山塊の頂点に八溝山は位置する。今では、山頂まで道路が整備され、車で登れたが、急峻な道は長い。百五十年前の山道は、さぞかし細く、険しかったことと思う。 山頂からは、日光方面も遠望でき、この地に籠ろうとしたのが、わかる位置だった。 ![]() ![]() 天狗勢本体は、大子村から明神峠を越えて奥州街道に至る経路をとったとあったが、途中の南方村は、今でも森深く、林業が営まれていた。遊び心溢れる木彫りフクロウが迎えてくれた。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 7, 2021 08:14:03 AM
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