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テーマ:報徳記&二宮翁夜話(503)
カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
「近世の村と生活文化ー村落から生れた知恵と報徳仕法」大藤修著抜粋
天保14年以降の仕法 天保14年(1843)11月、茂木領の藤縄村・林村・小深村の庄屋等が幕府から下された日光参詣の際の人馬等の拠出の手当金を「村柄取直」仕法の資金に献上した。藩はこれで「報徳善種」と定め、病難・困窮者等を救済することを目的に、無利息金貸付制度をつくり、農閑期に一夜一軒について一房ずつ縄索(なわない)させて、これを積み立て上納させた。 日掛縄索制度は、本来は、藩が農民から縄を一房4文で買い上げて、その代金を「報徳善種金」に加えるものだったが、実際には1軒につき一日4文の割合で金で代納させるようになり、課税化してきた。このため、嘉永5年には、縄索代納の免除を願い出がでるなど、農民を難儀させる制度となっていった。 「無尽蔵」の米・金も天保14年(1843)には、藩財政に全額繰り込んで予算が立てられている。仕法が尊徳の指導を離れ、中村勧農衛の指導に入った天保14年以降この傾向は強まった。こうした農民の負担増によって農村復興を図る手法は農民の反発を招いた。 中村勧農衛は「一般の人の質が惰弱の風俗に流れ、是非の弁別がなく、ややもすると少しの利を争い、訴訟沙汰に企て、・・・家がつぶれて離散する者も少なくない」と農村復興が思うように進展しないことを歎いているが、それは結局は尊徳先生の本来の仕法から離れた自らの責任なのかもしれない。 尊徳と谷田部藩との確執 天保14年(1843)、尊徳と谷田部藩との関係は断絶した。そのため尊徳は、これまでの事業報告書の提出と貸し付けた桜町報徳金の返却を谷田部藩に要求した。だが藩側は全く応じようとしなかった。 尊徳がこの交渉経緯を記録した書類を見ると、相手側の態度に憤激している。・・・ 尊徳が谷田部藩の仕法のために桜町領から投入した金銭と米穀は、総額1951両余に上っている。これは無利息5ヵ年賦で返済すべきであったが、実際には天保13年(1842)段階で268両3分しか返済されていなかった。この貸付には「趣法通りの取行が功験が之無く、返済相届き難き候節は、其の儀に及ばず」という条件が付けましていたが、尊徳が返済を強く求めたのは、その投入によってせっかく農村がある程度復興し、「分度」外の収入が生ずるようになったにもかかわらず、尊徳の指示通りにそれを繰り返し農村復興仕法に投下することをせず、藩財政に流用していたため、「報徳」の趣旨に背いているとみなしたためだった。 嘉永2年(1849)尊徳は谷田部財政のあり方を痛烈に批判した。 「去る午年以来、荒地起返し、産出候平均御土台外米金、1,560俵余、その外御本方より多分の軽利金御繰り入れ下し置かせられ候余徳を以て、凡そ12万両余の御借財もあらまし形付き、柳原御上屋敷はじめ、谷田部御陣屋御普請もでき、次に中郷御下屋敷代地まで相整え、去る冬は 辰十郎様御乗出しも相済み候に付き、表向きは御高丈相整い候得ども、先年御困窮相成り候其の根元を知らざるものなどは、十分この上も無く、立直り候様相心得申すべく候得ども、前々古荒5分9厘2毛の内、御趣法以来凡そ半分、2分9厘5毛8弗起返り候と見積り、都合7分少し余、2分9厘6毛5弗の御不足、凡そ3ヶ年に1ヶ年皆無同様に罷り成り候悪種、速やかに官禄身命をなげうって、御子孫永久の為を御開発成さるべき御身分に候処、案外結構御取立て下し置かれ候御恩沢に甘へ、又妻子の愛情にひかれ、先年約諾仕り置き候発願を翻し、立身出世、身分の為に包み置き、年々歳々御分内より発行仕り候御困窮は、向後御自分始め、仮令何程人智者並出るといえども、是を防ぐ事叶わず、古歌に、田子の浦に、うち出て見れば、白妙の、富士の高根に、雪はふりつつ、とかや、眼前当方より繰り入れ候御土台米金、御返済之儀は勿論、御本藩より多分之御助成を以て、御世話進ぜられ候その甲斐も御座無く相成り、忽ち素(もと)の如く荒地と罷り成り、家数人別御収納等相減じ、御困窮に罷り成り候段、残念至極に存じ奉り候。」 仕法によって荒地もかなり起き返り、「分度」外の米・金も産出し、借財整理の進捗したが、しかし、これで十分立ち直ったと判断するのは間違いである。もしこれで安心するとしたら、それは以前に困窮した根元を知らないからである。まだ領内には3割近くの荒地が残っている見込みで、すぐさまその開発に力を注ぐ必要がある。しかるに、先年、「分度」を守り、それを超える米・金収入を農村復興仕法に投入することを約したにもかかわらず、違約してそれを自分のためだけに抱え込み、復興仕法をなおざりにしている。このままでは領地はたちまちもとのごとくに荒廃に帰してしまい、当方より米・金を繰り入れて援助した甲斐もなくなってしまう。 以上のように批判した上で、「去る午年以来15ヵ年の間起き返り、産出候平均御分台外米金、其の外以前と違い、所々起き返り候趣法米金も、多分之有り候間、一作未4月、御伺い相済み居り候雛形の通り、年々繰り返し、尺寸の廃地之無き様起き返り、作り立てられ、其の潤沢を以て、借財返済、窮民撫育、潰れ退転式取立て、御仁徳を左右に布き候はば、御領中のみに限らず、詰まり御国益にも相成る申すべく候」 と「分度」外の米・金を年々繰り返し農村復興仕法に投入していくように要請し、それは領分中の益のみに限らず、つまるところ「御国益」にもなるのだと、説いている。ここには、単に個別領分の富裕化のみを目的としていたのではなく、日本全体の「興国安民」の実現を企図して各地の復興仕法を指導していた尊徳の視野も示されている。 これに対して、谷田部藩側は、尊徳との約束に背き、「分度」を守らなかったことを認め、それを侘びながらも、藩財政が再建できてこそ領民の撫育もできると、藩財政の再建を優先させる論理で尊徳に返答しており、農村復興こそ何より優先すべきで、領主階級の「分度」内での緊縮財政の実践を厳しく要求する尊徳の論理との相違が端的に示されている。 桜町報徳金返済問題は、嘉永4年(1851)にとりあえず300両を故大久保加賀守菩提所麻布教学院へ回向料として献金し、翌年より5ヵ年間で残りを年賦返済していくことで示談が成立している。 (略) 大藤氏は家財・田畑・山林は先祖からの預かり物であり、家業に精出し、家産を減ずることなく、子孫に譲り渡すことが、先祖と父母に対する「孝」であることは、近世の農民に一般的なものであり、生活意識の核をなしていたと指摘される。(略) 大藤氏は、篤農は荒村下では数多く誕生したと指摘する。それは尊徳が「貧者の者は活計のために、勤めざるを得ない。さらに富を願うために、自ら勉強する」と述べたとおりであった。 そして尊徳の思想も、こうした農民の直面した課題に立脚していた。ただ、そうした営みはあくまで自分の家や村を復興させ存続させるためのもので、その枠内に留まっていた。尊徳はそれを基礎としつつ、それを超えて社会的思想・事業まで高め、体系化した。尊徳が目指したのは、「興国安民」の実現であり、その原理として「報徳」を提唱したのである。尊徳の思想もまた「自得」に支えられ、自然と人間の関係を原理的に考察し、「天道」と「人道」をそれぞれ「自然の法則」と「作為の道」として区別した。そうした合理的な自然観・人間観・社会観に立脚して、幕藩制度のもとで、人間の価値を身分・格式を基準としてではなく、個人の能力・徳性にもとづいて評価すべきことを、強く主張している。 尊徳の思想には近代的な人間観、人間平等・ヒューマニズムの観念がはらまれていた。尊徳は「人道」論に立脚し、農民に自立的・主体的な人間としての自覚・自発的な勤労意欲を促す一方、領主に対しても、それを理論的根拠として、農民撫育の仁政を不断に実践すべきことを強く要求した。尊徳は、農村荒廃の原因は領主の過酷な課税と農業振興の不足にあるとし、その過酷な課税を領主が自らの財政に「分度」を確立していないため、財政の不足を補おうとすることに起因していると、認識した。 このため尊徳の仕法は、まず領主財政に「分度」を設定して恣意的な収奪強化を規制した上で、財政再建は緊縮化によって「分度」内で行わせ、その分度を超える収入は農民の生産・生活の安定、農村復興のために繰り返し「推譲」させることを原則としていた。 尊徳は「我が道は、天子の任である。幕府の任である。諸侯の任である。もとより卑官小吏の任ずる所に非ず。何ぞや。国を興し、民を安らかにし、天下を経営する道なればなり。」と言う。 小田原藩さらに幕府に登用された尊徳は、「興国安民」を実現しようとした。 また貢租収納量が激減し、深刻な財政難に陥った諸領主も尊徳仕法を依頼した。 しかし農村の生産・生活の安定、農村復興を第一義とする尊徳の論理と、収量増加を藩財政に組み入れて財政再建したとする領主側の論理の対立が顕在化することは必然であった。 「報徳記を読む会」で桜町陣屋跡を見学した時、二宮尊徳資料館の館員の方が、「二宮尊徳の仕法が成功したのは、ここ桜町と相馬藩の2つだけです。ほかは全て失敗しています。また、桜町というのはこの地図ではここの3村でそれ以外の土地では二宮金次郎が桜町のために堰を作ってから水がこなくなったとか、よく言わない人がいます。」と説明された。 一緒に「報徳記を読む会」を立ち上げたKさんから帰りの車で「いやー、現地では二宮尊徳を讃えるばかりかと思ってたけど、金次郎批判を聞くとは思わなかった。かえってよかった。」と妙な感心をしていた。栃木・茨城の報徳仕法を行った土地で二宮金次郎批判、悪口雑言があることは岡田博氏もその「政道論序説」のなかで指摘しているところである。 それによると茂木でも「勧農衛と地しばりなけりゃいい」とかいう俗謡があるという。 中村勧農衛は茂木では道路を開鑿して交通の便をよくしたり、間引きをやめるようにという教化書を作ったりと遺蹟や事蹟があるなどそれなりの功績があるにもかかわらず、なぜこのような批判があるのか。岡田氏は心田が開発されていなかったからと言及され、それはそのとおりではあるが、大藤教授が指摘されるように、烏山藩、茂木・谷田部藩、下館藩では「収量増加を藩財政に組み入れて財政再建したとする領主側の論理」が「農村の生産・生活の安定、農村復興を第一義とする尊徳の論理」をおそらくは藩士の不満・鬱積の声によってまさってしまった。報徳仕法によってある程度復興すると(それは分度外の収入を繰り返し農村復興・農民の生活向上に再投下したことによってもたらされたものであるが)、分度外の収入を藩財政の再建費用に繰り入れて結局は分度を守れず、農村復興に再投下する資金がなくなり、それを農民から別に徴収しようとし、恨みをかい、勤労意欲をなくさせ、収奪されたり、寄付を強要された記憶だけが代々言い伝えで残っていくという状況が生れたようにも思われるのである。 報徳記では富田高慶は繰り返し「人なるかな」と慨嘆している。巻の2の最後では青木村の舘野勘右衛門をこう称えた(原文漢文) 「里正勘右衛門のこの邑(むら)に在る。譬えば蓮の泥中に在るがごとし。もし勘右衛門なかりせばすなわち先生また何ぞ良法を施すことを得ん。古より事の成否その人に存す。小邑(しょうゆう:小さい村)なお然り。いわんやこれより大なる者をや。」 今、青木には顕彰碑が残る。 仰いで、この報徳仕法のお膝元であった栃木・茨城の地で最後まで分度を守って事業を成就し模範となる藩がなかったことを残念に思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年02月24日 04時01分59秒
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