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2009年06月06日
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「報徳読書会」参考資料
巻の7



1 「武者小路実篤全集」第9巻「二宮尊徳」より       ・・・・・ 2
2 『為政鑑』と分度の確立(「二宮尊徳の相馬仕法」岩崎敏夫著)・・・・・ 5
3 仕法実施村の選定(同上書)               ・・・・・ 7
4 『御仕法掛心得方大略』と役人の心得(同上書)      ・・・・・ 8
5 東北アワー・高橋克彦の歴史ズームイン          ・・・・・ 10
6 御仕法掛心得方大略(「二宮尊徳の相馬仕法」岩崎敏夫著)  ・・・・・ 12
7 仕法の準備と推譲の精神(同上書)            ・・・・・ 15
8 成田・坪田へ仕法開始(同上書)             ・・・・・ 17
9 仕法の実際(同上書)                  ・・・・・ 19
10 「仕法仕上げ」と報徳の精神(同上書)          ・・・・・ 28
11 「二宮金次郎の人生と思想」(二宮康裕著) ・・・・・ 31

「二宮金次郎の人生と思想」(二宮康裕著)

相馬仕法

相馬仕法は、数ある報徳仕法の中でも際立った特色を示す仕法である。特筆すべきは、仕法に対する理解が君臣民(藩主・藩士・領民)の間に進み、金次郎没後も、廃藩置県に至るまで仕法が継続されたことである。2点目は金次郎の助言・指導の下に、門弟筆頭たる富田高慶が中心となって仕法を展開したことである。金次郎は相馬藩領に一度も入ったことはなかった。3点目は、「日光仕法雛形」が初めて仕法に活用されたことである。報徳思想が『三才報徳金毛録』によって体系化され、その仕法への応用が烏山・谷田部茂木・下館仕法で試され、弘化3年(1846)の「日光仕法雛形」に結実した。この雛形を実行に移したのが相馬仕法である。普遍仕法雛形として全国展開をめざして案出された雛形の実行であるだけに、その成果は問われなければならなかった。
(略 相馬藩衰廃の次第、富田高慶)
富田は、天保10年(1839)9月27日に金次郎門下となるが、彼は自己の一存で入門したのではないようである。金次郎は「勤方住居奉窺候書付」で「亥年(天保10年11月8日の金次郎宛書簡(全集6巻611頁で、『富田久助雲水執行中、御膝下に随ひ、兼(かね)て被行候御徳化を片端をも相伺、御教諭にも預り候て(中略)何卒(なにとぞ)久助(すけ)方才を以高徳之十が一にも至候はゞ、於私も厚可致大慶候』と記した。

※今般不思議の事にて、富田久助雲水執行中御膝下に随い、兼(かね)て行われ候御徳化を片端をも相伺ひ、御教諭にも預り候て、在所荒廃の地を相開き候(そうろう)拠(きょ)と仕(つかまつ)り度(た)く、赤心聊(いささ)か御察し取り下され、御仁恵の御扶助となさるべく候間、御奉仕先まで召連れられ御信誠の御行(おこない)も執行仕り候様、御許容下され候段粗(ほ)ぼ申聞き候。扨(さ)て又一家の衰廃を起し候儀、容易の粉骨に参り候事にこれ無く候処、貴君桜町御再興の御丹精(ごたんせい)驚耳(みみをおどろかし)感じ入り候事に御座候。御在府にも相成り候はば御名誉の御咄(はなし)も承り、及ばずながら赤心を御談し申し度(た)く候へ共、懸隔(けんかく)懸命の御互、其(その)儀能(あた)はず、厚く残念に存じ奉り候。何卒(なにとぞ)久助寸才(すんさい)を以て高徳の十分の一にも至り候はば、私に於ても厚く大慶致すべく候。(「二宮尊徳の相馬仕法」P30)

これらのことから、富田の入門は相馬藩の意向に沿ったものであることが理解される。
 この年の12月、富田は烏山藩の菅谷、谷田部茂木藩の大嶋らと共に小田原に出張し、三新田・曽比仕法をつぶさに検証した。この頃の金次郎の動静は「小田原出張中日記帳」(全集15巻550頁~)に示される。日記には金次郎を訪ねた人名が記されている。毎日多数の訪問者名が書き込まれている。ここで富田は各村落の仕法に向けた情熱を感じとることになった。しかし富田は発病し、天保11年(1840)正月9日に療養のため浦賀に向かった。富田の病気は思いの外長引き、7月7日の記録でも「いまだ病気聢(しか)と不被致(致されず)」と記されている。
 家老草野は富田に書簡を送り、報徳仕法発業を金次郎に依頼する旨を記した。しかし富田は報徳仕法の実情に接し、「中々以て容易に御許容有之事に無之」(全集31巻3頁)と、相馬の状況が発業すべき段階に至っていないと理解し、仕法発業を金次郎に求めることに難色を示した。

※其以来貴意を得ず候得共、向寒の砌いよいよ御安泰成され御座奉り欣然候、昨年中は富田久助御膝下に御教諭成され下し候趣き、諸事御手厚の御事少なからず、忝く大慶候、さて追々衰廃の地御引立ての御信節、天地神明を御動し成され候儀、同人伝達にて具に承知致し候、頻りに金言を承りたき処、懸隔の儀心底に任せず、遺念浅からず候、久助事夏中より不快にて、推参遅滞、今般亦々御膝下へ御教誨を蒙りたき旨申聞候、此の上ながら頼み奉り候間、朝暮召し仕られ、薪水執行の内御教示下され候様伏して頼み奉り候、在所同役共よりも、願わくは尊師を御招請致したく時々申し越し候に付き、久助へ物語候へども、中々以て容易に御許容これ有る事にこれ無き候段申聞候、御尤成る御事御座候、領分は元来本田6万石、新田改出高3万8千石、しめて9万8千石余、家事盛ん成る時は、人別9万人、内高12万 迄収納これ有り候事、万治より元禄の間迄家事壮んに付き収納致し候、ここに於いて上下の驕奢相募り、連々困窮致し、夢の如く人別減少いたし、天明元年には5万人に相減じ、天明3大凶飢饉に付き、1万6千人死亡離別これ有り、一度は3万3,4千人迄に減少致し、当時いささか信節の糸口開け、25ヶ年以来役人世話を尽し、漸く4万人余に相成り申し候、去りながら尊師程の傑出未だ出顕これ無く、何れも庸人共に付き、今一段の信節行き届き申さず歎息致し、光陰を送り候、若しや不便に御察し下され、遠国の領分、興復の御助情下され候はゞ、いかばかり大慶仕るべく、元より御功業の相立ち候処、2ヶ村3ヶ村の訳にこれ無く、宇田郡、行方郡、標葉郡しめて3郡の地御開基下され候はゞ、天下へ響く御大功にも相成るべきやと存じ奉り候、去りながら当節御隣領御信義と御結び進められ候御身上の儀、相願ひ候て詮無き事にはこれ有べく候へども、職掌遁れ難く、屈思の余り鄙章を呈し候、余は久助献ずべく鄙言深く頼み奉り候右時候御見舞かたがた心事万分の一を尽さず候恐惶謹言
 天保11年11月21日 相馬藩 草野半右衛門
二宮金次郎様(全集31巻3頁)

と相馬の状況が発業すべき段階に至っていないと理解し、仕法発業を金次郎に求めることに難色を示した。やむなく草野は、天保11年11月22日、金次郎に仕法発業を求める書簡を送った。
「三郡の地御開基被下候はゞ、天下へ響御大功にも可相成哉と奉存候、乍去当節御隣領御信義と御結ひ被進候御身上之儀、相願候て無詮事には可有之候へども、職掌難遁、屈思之余呈鄙章候」(全集31巻3頁)
 草野の必死の思いも、この段階で金次郎を動かすことはなかった。翌天保12年、草野は再び金次郎に書簡を送った。
「先生御取り行きの勧農御誠信の儀、御頼もしき一同信じ奉り候に付き、今般在所郡代一條七郎右衛門、一ヶ年の勤番手明に付き帰村致し、幸い先生の御教示を蒙りたく、昇堂の寸志を労し候て、4,5日中にはここ元出立、御陣屋へ向いて罷り出候間、御面倒ながら御逢い下され、廃村御取立ての御誠信を御諭し下され候様願い奉り候、当人願わくは永く御手に付き執行仕りたく候得共、在役にて永々暇も相済がたきに付き、一両夜の拝謁、御誠信の御一句を御諭し下され候様に願い奉り候」

※一筆啓上致し候、寒冷相増し候得共、いよいよ御安泰成さる御座奉り欣然候、そもそも久助事永々御厄介を受け、御教諭を蒙り、浅からず忝く存じ奉り候、久助よりあらまし御咄し仕り候通り、領分衰廃の体、庸人共にて急々興復致すべくにこれ無く、君臣悲歎堪え難く候、これに依り先生御取り行きの勧農御誠信の儀、御頼もしき一同信じ奉り候に付き、今般在所郡代一條七郎右衛門、一ヶ年の勤番手明に付き帰村致し、幸い先生の御教示を蒙りたく、昇堂の寸志を労し候て、4,5日中にはここ元出立、御陣屋へ向いて罷り出候間、御面倒ながら御逢い下され、廃村御取立ての御誠信を御諭し下され候様願い奉り候、当人願わくは永く御手に付き執行仕りたく候得共、在役にて永々暇も相済がたきに付き、一両夜の拝謁、御誠信の御一句を御諭し下され候様に願い奉り候、差付罷り出で候て尊慮を驚し奉り候儀いかが存じ奉り候に付き、拙者より禿筆呈し候、右等の趣き願い奉りたくかくの如く御座候恐惶謹言  天保12年10月18日   草野半右衛門
二宮金次郎様
 猶以て当年は寒気も急候間御油断無く時候の御愛護成さるべく候以上(全集31巻3頁)

 草野は、金次郎の招請は無理と考え、相馬藩の窮村の実情を知る郡代一條を桜町に派遣し、直接に金次郎から荒村立て直しに向けた指導を求めることにした。しかし金次郎は求めに応じず、一條との面会すらしなかった。この間の事情を金次郎は、小田原藩士入江萬五郎・男澤茂太夫・山崎金五郎衛門宛書簡に記した。
「小田原表其外御趣法向繁多に付、不敬を不顧達て御断申上候得共、何分引取兼、十日余被止宿、厚御頼御座候得共、面会不仕、無是非引取被申候」(全集31巻26頁)
 間に入った富田は窮した。その後、相馬藩から富田に禄米の給付が内示された。富田は辞退したが、「役威を以厳重に違背は難相成」と迫られ、やむなく禄米を受納した。これが金次郎の琴線に触れ、富田への叱責となった。富田は一言の弁解もしなかったようであるが、噂が洩れ伝わり、家老草野は金次郎側近の豊田正作に書状を送った。
「中村にて恩賜を以、一箇之役儀をも可申付などゝ申越候に付、久助心底は左様之心得に無之、両三年杯に帰国仕、仕業仕候淵底にては無之、今生に難得先生之膝下に随従
仕候事、人倫之大幸無此上事と存込候体に御座候」(全集6巻1214頁)
 この文面からも、老臣草野が、富田に示す情愛が感じられる。富田の態度も誠実そのものであったようで、頂戴した禄米は窮民撫育のために推譲していた。
 草野は金次郎との往返の中で、しだいに金次郎の仕法に対する意識を知ることになった。すなわち、金次郎がめざしていたのは藩政の財政改革・農村復興・窮民撫育だけではないことを悟った。金次郎が永安の安寧策を求め、挙藩一致の覚悟を求めていることを草野は理解した。そこで草野は天保13年(1842)から弘化元年(1844)にかけて再三金次郎を訪問することになった。
 天保13年、金次郎が幕臣に登用されると、相馬充胤は老中宛に「願書」を提出した。
「二宮金二郎 御用向閑隙之節、無御指支御事候はゞ、私領邑家事共、興復之手法教示致呉候様相頼候儀不苦儀御座候哉、此段御手前様迄御内意奉伺相馬大膳亮」(全集31巻41頁)

 





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最終更新日  2009年06月06日 11時43分26秒



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