12387784 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

GAIA

GAIA

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
全て | 報徳記&二宮翁夜話 | 二宮尊徳先生故地&観音巡礼 | イマジン | ネイチャー | マザー・テレサとマハトマ・ガンジーの世界 | 宮澤賢治の世界 | 五日市剛・今野華都子さんの世界 | 和歌・俳句&道歌選 | パワーか、フォースか | 木谷ポルソッタ倶楽部ほか | 尊徳先生の世界 | 鈴木藤三郎 | 井口丑二 | クロムウェル カーライル著&天路歴程 | 広井勇&八田與一 | イギリス史、ニューイングランド史 | 遠州の報徳運動 | 日本社会の病巣 | 世界人類に真正の文明の実現せんことを | 三國隆志先生の世界 | 満州棄民・シベリア抑留 | 技師鳥居信平著述集 | 資料で読む 技師鳥居信平著述集  | 徳島県技師鳥居信平 | ドラッカー | 結跏趺坐 | 鎌倉殿の13人 | ウクライナ | 徳川家康
2009年06月06日
XML
 天保13年、金次郎が幕臣に登用されると、相馬充胤は老中宛に「願書」を提出した。

「二宮金二郎 御用向閑隙之節、無御指支御事候はゞ、私領邑家事共、興復之手法教示致呉候様相頼候儀不苦儀御座候哉、此段御手前様迄御内意奉伺相馬大膳亮」(全集31巻41頁)

※天保14癸卯年7月 願書写 草野半右衛門
大膳亮様御領邑之儀は頼朝公御治世より600有余年来、治乱盛衰これ有る内、天和元禄の頃、人別8万人余、正徳元年迄追々御届申上られ置き候通り、御持高6万石の外、新田改出御高3万8千石余候得共、其の実は山迫り海辺の悪地、後世に至り自然に人別減少、荒廃手余の地多分相成、別して天明3卯大飢饉、同4辰の春疫癘流行、死亡離散1万6千人余、同巳午凶荒民家いよいよ相衰へ、荒廃の地夥しく、御収納格別減少、文化13子年に至り、半高余御損毛打継、御借財数十万両相嵩み、御家中御扶助御領民御手宛行届き為されず公務も覚束無く、御前代これ無く厳重の御倹約、御開国御同様の心得を以て、御厳法御取行成され候処、天保4巳大凶荒、文化度より追々御貯め置かれ候非常の米金残らず御遣ひ払い、御借財相加えられ、草根木実等取交ぜ、御領中一致の勢力を励まし、御取り救い死亡離散のものこれ無く、却て合勺の救い米を慕い来り候。流民共これ有り、人別少分相増し候処、同6未春大膳亮様御家督成され、同秋遺作、重ねて申の大凶絶作、領民飢餓の体、旦夕迫り候に付き、初めての御参勤、酉の春中迄御用捨て成され下され、御油断無く誠精を御尽し成され候得共、又酉戌之遺作、天明4ヶ年の荒凶より、猶甚だしく救荒の主法、天理人心の誠実致し尽し候程の千辛万苦の御次第は、微細御書きしたため、其の御許(そこもと)様御勝手へ御内聴聞入り奉られ候、毎事御憐察を以て、御領民御手宛且御取締りの為時ならず御暇、御居成る御暇等成し下され、公朝広太の御仁恵を蒙りなされ、飢民御取り救い、御領邑御安堵成され候儀、誠に以て御仁徳と、御威光に寄り大膳亮様御誠意も相立ち、御領民一同拝服仕り、4ヶ年の天災は相凌ぎ候得共、余殃漸々相顕れ、人別相減、恐るべきの至りと思召し候、随て御勝手向き必至と窮迫致され候体、去る寅の4月御参勤の節、御したため御内聴に入れ奉られ候処、麦作熟さず、新穀迄の間微力の貧民食料乏しく困苦仕り候得共、申年以来御借財を以て、かなり相凌ぎ候御逼迫の御経済故、右御手宛御存分御行届き成され難く、7,8月の間海上高浪田畑潮入、9月中数日の風雨水押し等これ有り、御届け仰ぎ上げられ候通り、損毛高困民の悩み少なからず、さて又年々歳々水旱の患害免れ難き所以は、人別減少、新田改高多分は荒廃手余の地、本高の内にも山手海岸の村々、損毛の場所多く、封境手広にて、生財の地力薄く相成り、耕田第一用水諸普請所、中古8万余人にて仕り来り候形、唯今4万余人の力に及び難く、水旱とも防ぎ難く、御他邦は豊作にても、御領邑は不作同様、天明巳後60年来の今に至る迄、半高余りの御損毛、止むを得ざる儀に御座候、旧来の御廃衰、かくの如き御並合いもこれ有るまじく、重々恐れ入り、是非人別増、荒地開発の主意、数代御丹誠の御志を継ぎなされ、

幕臣登用にあたり、金次郎は大名領の仕法を辞退した(小田原藩を除く)。各藩は老中水野忠邦に仕法継続を求めた。相馬藩は仕法を発業していないにもかかわらず、老中に仕法を求めたことになる。天保14年8月28日、老中から「御書付」による指示がなされた。
書面之趣教示、一通り之儀は相対を以相頼不苦候事(全集31巻43頁)
相馬藩が金次郎に仕法発業を依頼することは事実上幕府から公認され、積極的に仕法発業を要請することになった。金次郎は相馬藩に分度の設定を求めるため、諸帳簿の提出を促した。家老図書から金次郎に宛てた天保14年11月の書簡である。
明暦以来出入之大略、追々調置候高出米等、入御覧、蒙御指図度奉願候(全集7巻145頁)

相馬藩には明暦(1655)以来の記録が残されていた。しかし直接の担当者俊助が持病で引き籠り、富田も母の病状が悪化し出勤できない状況が続いた。この頃の富田の苦悩を草野は金次郎に次のように伝えた。
母の病気弥不出来仕、大小便之取抱も余人へ相懸不申候体之看病、久助手に仕、手を放し出立可仕強気に難移(以下略)(全集7巻144頁)
草野は富田の窮地を理解しつつも「師恩を重しと仕候時は、忠義も相立ち、孝道も相立之基に御座候」と富田を激励し、諸帳簿の写しをもたせて金次郎の元に赴かせた。

※一筆啓上仕り候、甚だ寒く御座候得共、ますます御勇健御在陣なされ、一段の御事存じ奉り候、御出張後早速御陣中の御様子相伺い申すべく候処、俊助、久助帰府遅滞に煩労仕り、時々節々図書方へ催促及ぼし候所、既に后の9月初めに、俊助出立仕るべき旨申来侍り入り候所、持病の疝癪不常不出来仕り引きこみ、同人出席これ無く候ては、平均分台の調べ果敢に取りかね、漸々去月末出勤仕り、大勢取りかかり取調べ、10日頃迄に清調仕り候体に至り、去る12日出立致し、一昨19日上着仕り候。久助儀は御難場の御暇を蒙り、罷り下り候処、母の病気いよいよ不出来仕り、大小便の取抱えも余人へ相懸り申さず候体の看病、久助手に仕り、手を放し出立仕るべき強気に移り難く、尤も私よりは毎々君父師の恩、何れを重しと難申す内
先生へ御随身仕り候趣意、忠義一筋より起り候事、師の難儀、母の難儀を見懸け候ては、何れを重しと仕り候、師恩を重しと仕り候時は、忠義も相立ち、孝道も相立つの基に御座候へば、三ツの内何れを捨て、何れをか取ると申し候。初一念に忠義の為に、両親の情愛を断に、今度雲水の決定に立ち帰り、早々出府し、先生へ奉仕を本根と仕るべき旨申し遣わし候に付き、病人の母も、追々帰道仕り候て、漸々情合を捨て、俊介と同道出立の治定に仕り候処、例の風邪を引受け、12日出立猶予仕り、一両日保養仕り候。織江を指し出し申すべき処、3万俵余の回米、日々着岸、荷役等は余仁にて出来候事にこれ無く、于今同人は引放しかね罷り在り候、先だって中村氏より御急書下され、細川様御趣法御取り極められ、石川様御同様、その烏山様御調べ中の由、此の節は悉く御調べの御事、恐悦至極存じ奉り候(略)右延引の御申訳、紙上に申し上げ難く、私罷り越し御詫び申し上げたく候得共、時節柄此の方引きはなしかね、委細俊助へ申し含み候間、厚く御聞き届け下さるよう願い奉り候。右の段寒中御機嫌を伺い、このごとく御座候恐惶謹言    草野半右衛門 正辰
11月21日
 二宮金次郎様

この諸帳簿の提出をうけて、金次郎は「為政鑑土台帳」を作成することになった。金次郎が相馬藩の分度を如何に設定したか。「天禄温故中庸為政御土台帳 乾」によって検証する。
夫人は地に居て天を戴き、天地之両性に懐れ、身命を保つ、元来天地と一物一体なり、是故に古今三周度一円に致平均、盛衰安危之両弊を省き、過もなく不過もなき、天命自然之中庸を執る、永久万代御暮向之大極を定為規則(中略)宝暦五乙亥年より天保十五甲辰年迄、一周半九十ヶ年、豊凶平均致、今之衰たるを陰となし、初節を立、猶又陰陽之岸、収納十ヶ年平均度を再び加へ、都合一百年之産を量平し来、乙巳年より御暮向御分台と相定置候(全集31巻55頁)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2009年06月06日 13時27分13秒



© Rakuten Group, Inc.