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2017年03月17日
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台湾製糖株式会社と鈴木藤三郎初代社長
鈴木藤三郎は鳥居信平の故郷袋井市に隣接する森町の出身です。一八五三年遠州地方の代表(遠州報徳七人衆)が日光で二宮尊徳に面会し、遠州の報徳が公認され、遠州から三河にかけて報徳が広まりました。藤三郎は一八七六年(明治九)正月に実家の太田家で『天命十か条』という本を見つけ、二宮尊徳の報徳の教えを研究し、その「荒地の力をもって荒地を興す」の方法を家業の菓子製造販売業に適用し五年で十倍の売り上げとなったことから「二宮尊徳の報徳主義は人間万物に応用して最も有効に活用できる」と確信します。そして氷砂糖製造法の発明、精製糖工場の設立など、「砂糖王」「発明王」と称されました。
一八九五年(明治二八年)台湾が日本に帰属し、井上馨(かおる)、児玉総督、後藤新平による台湾の振興政策として台湾製糖株式会社が設立されました。一九〇〇年(明治三三年)創設発起人会が開催され、それに先立って鈴木藤三郎と山本悌(てい)二(じ)郎(ろう)による実地調査が行われます。創設発起人会で鈴木藤三郎が台湾製糖の初代社長に選任されました。工場地は藤三郎らの調査の結果、台湾南部の高(かお)雄(しゅん)「橋(きょう)頭(とう)」が最適地として選ばれました。藤三郎は社有地農場の買収を提案し、報徳の教えに則(のっと)って、両(りょう)得(とく)農業法を案出し、会社と農場の農民双方が得をする農業法を目指しました。藤三郎自ら工業建設に従事し、また修理工場の建設=自助の精神による会社運営を行いました。台湾製糖は台湾最初の近代的製糖会社でした。『台湾製糖株式会社史』には、次のように記されています。

「鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取調のため、山本悌二郎氏を同伴、明治三十三年(一九〇〇)十月一日、新橋駅を出発し、三日神戸出(しゅっ)帆(ぱん)、七日台北(たいぺい)に到着した。十三日まで同地に滞在の上、総督初め諸官に面会し打合せを行い、十月十四日基隆(きーるん)出帆、安(あん)平(ぴん)に上陸し十六日台南到着、三日間同地に滞在後、実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻(ま)豆(とう)付近に置く予定であったが、先ず高(かお)雄(しゅん)に出た。次いで鳳(ほう)山(ざん)に至り、それより万(ばん)丹(たん)、東港を経て、糖業地の南端の枋(ぼう)寮(りょう)に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目(もく)論(ろ)見(み)を立てていたから、枋寮以北の大原野について、特に注意して踏査検分した。枋寮と石光見との間には蕃界(ばんかい)に接して原野があり、石光見より阿(あ)緱(こう)街(現屏(へい)東(とう)市)付近にかけても大原野が横たわっている。この大原野を通過し阿(あ)里(り)港(こう)に出で、下(か)淡(たん)水(すい)渓(けい)を渡って手巾寮に至り、蕃(ばん)薯(しょ)寮(りょう)を過ぎ、山を越え関(かん)帝(てい)廟(びょう)に出で、台(たい)南(なん)に帰着したが、この行程に費した日時は二週間に及んだ。更に北上し、大目降、曾(そ)文(ぶん)渓(けい)を経て・・・それより塩(えん)水(すい)港(こう)に出で新(しん)営(えい)商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間十一日を要し、前後を通じて二十四、五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万(まん)隆(りゅう)及び大(だい)晌(しょう)営(えい)その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。以上の如き実地大調査を終えて、鈴木藤三郎が帰京したのは明治三十三年(一九〇〇)十二月二日であった。」
工場は最初、総督府の調査に基づいて麻豆付近が考えられていましたが、鈴木、山本の踏査の結果、曾(そ)文(ぶん)渓(けい)、橋(きょう)子(し)頭(とう)の二か所が候補地となり、運搬及び水に便利がよいことから橋子頭に決定しました。一九〇一年(明治三四)二月一五日建設工事に着手します。工場の設計設備に最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは鈴木藤三郎でした。藤三郎はサトウキビを搾(しぼ)って分蜜糖を製出した経験はなく、また工場建設にあたって、ロンドンで出版された「シュガー」の一小図版を参考として設計図を作成しました。当時、最先端の技術は欧米諸国の技術者の助言援助等に頼っていましたが、そうした方策は採らず、北海道紋(もん)鼈(べつ)の甜(てん)菜(さい)糖(とう)工場で製糖技術を修得した齋(さい)藤(とう)定(じょう)雋(せん)氏らを用いて実際の仕事を進めました。「鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」と『台湾製糖株式会社史』」に記されています。
「建設工事 創立の二箇月後、即ち明治三十四年二月十五日、早くも建設工事に着手したが、工場の設計設備に、最も力を注ぎ且つその実行を指揮したのは、当時の社長鈴木藤三郎氏であった。氏は我が国に於ける新式糖業のなお渾沌(こんとん)たる時代に斯界(しかい)に身を投じて刻苦勉励、遂に我が国製糖界に於ける最高の権威者と称せられるに至った人である。即ち、明治十年頃氷糖製造に志し、次いで精製糖製造の研究に進み、自ら精製糖工場を創設し、漸次発展して明治二十八年、日本精製糖株式会社となるにあたり、その専務取締役兼最高技術者として重きをなしていた。氏の砂糖精製に関する知識と経験とは、当社の事業たる甘蔗分蜜製糖にも役立つ訳ではあるが、何分甘蔗を搾って分蜜糖を製出した経験は全然なく、且つ又工場建設に参考となるべきものは何もなかったので、西暦一八八八年、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中にある一小図版を参考として設計図を作成し、しかも当時一般の習はしであった欧米諸国技術者の助言援助等に頼るが如き策を採らず、ただ北海道紋鼈の甜菜糖工場に於て製糖技術を修得していた齋藤定雋氏、その他を用ひて、実際の仕事を進めたのであるが、鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」
藤三郎は両得農業法を考え、会社も農民も共に利益となることを会社の方針としました。「甘蔗栽培については、農民を誘導して品種の改良、肥培耕作方法の改善を講じようとして、並々ならぬ苦心を払ったが、旧来の習慣を墨守する頑迷固陋な彼等は容易に之を実行せず、従って土地を所有しても、その効果は直ちに顕れ難かった。ここにおいて鈴木社長は、農民にも利益を与え、同時に当社も利益を挙げつつ甘蔗農業を進歩せしめようとするいわゆる「両得農業法」を案出した。明治三十四年十二月付の「両得農業法草案」は次のような語を以て結んでいる。「この方法を実行すれば、会社及び農民の両者間においてニ万六千円の実利を生ずる。もしそれこの方法を会社は今後買収した土地にあまねく施すときは、その利益はますます大きくなるであろう。二宮先師訓に曰く、『天地が和して万物が生ずる、男女が和して子孫が生ずる、貧富が和して財宝が生ずる』と、まことにこの言葉の通りである。元来会社はこの趣旨にのっとって、人民と共に天地の間に充満する、いまだに所有者がない財宝の開発に勉めて、会社のため、国家のために鋭意専心実行していくことを希望する。」このように、台湾製糖株式会社は創業の初めから農民との共存共栄を図りつつ、土地所有を社是として進んで来たが、現在では約五万甲に垂んとする広大なものとなり、愈々その真価を発揮せんとしている。創立当初に樹立せられた大方針を顧みれば、今更ながら当路者の先見卓識に敬服せざるを得ない。」(『台湾製糖株式会社史』)
「当時、資本金百万円を超える事業会社は、内地に於ても大会社の部に属していた。いわんや台湾においては、かかる資本を擁するものは未だ類例を見なかったであるから、当社経営の成否は、ただに新企業たる新式糖業の将来、延いては国家経済の上に大なる影響を及ぼすのみならず、新領土経営上の試金石ともなり、台湾統治の上にも密接な関係を持つものとして重要視されていた。従って児玉総督初め官辺においても、その経営に対しては少なからず後援斡旋された訳で、当社の負える使命はまことに重且つ大であった。かかる使命と期待とは幸いにして着々その実を挙げ、台湾新式糖業の先駆会社としての目的を十分達することが出来た。」とし、『台湾製糖株式会社』の結語(三四四頁)には、「当社は明治三十三年、砂糖の輸入防止と、将来自給自足を達成するという国家大局的な立場から日本最初のサトウキビ製糖の大会社として設立された。農事方面では、原料のサトウキビの獲得を安全、有利にするため、土地を社有にし、各製糖所に農場を付設し、サトウキビ農業の進歩改善に努力した。工場方面でも、機械・製糖方法において発明考案を実施し、早くから科学的な工場管理法を実施した」とし、特に「創立当初より本島人との間に共存共栄の実を挙げることを大方針とした」とあります。鈴木藤三郎が台湾製糖株式会社に「報徳の精神」と「発明考案」をもたらしたのです。





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最終更新日  2017年03月17日 04時10分11秒



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