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カテゴリ:二宮尊徳先生故地&観音巡礼
山口県長門市の伊藤延一氏は郵便局長を務めていたが、定年前に退職し、亡き妻の供養のため四国遍路に出かけた(「巡拝記にみる四国遍路」116ページ)
伊藤氏は俳人大山澄太(山頭火の友人)に俳諧を師事していて、その「四国へんろ記」は大山の主催する『大耕』に連載された。 伊藤(敬称略)の遍路の目的は「両親と3人の妻の菩提を弔い」「人生再出発にあたり更仕一新下座行から始めよう」という念願からだった。伊藤氏は3回に分けて巡拝した。 伊藤は母から「三度の火事よりも一人の妻を失うほうがもっとも心の痛手なのに、お前はどうしたことか三人の女房に先立たれるとはのう」と詠嘆されていた。 伊藤は遍路の手段として遠距離の場合、交通機関を利用し、場合によってはタクシーも使った。寺院では般若心経と観音経普門品ゲを読経した。 宿泊は宿坊を多く利用し、寺で勤行するとともに住職の法話を聞き、霊験談を多くかきとめた。 第6番札所・安楽寺 水谷しづさんは昭和31年より脊髄カリエスにかかり、あらゆる手当をしたが悪くなるばかりで死の直前においこまれた。そこで安楽寺住職が88か所の巡拝をすすめた。しづさんは夫の繫治さんに助けられて病気平癒を祈願し難行苦行しつつ巡拝し、途中27番神峯寺の山中で不思議な霊験を得て全快した。感激の余りご本尊としてこの薬師如来を奉納した。 住職は、病気は医者や薬だけでは治らず、治療を受けると同時に信仰によって心の垢を除き、信念によって治すもの、と説法した。 第9番札所・法輪寺 奉納されていた絵額を目にした。それは階段に立たれた弘法大師に三人の男が合掌し、一人がひれふすものであった。 「京都市山口庄太郎は脳病のため言葉の自由を失い、百方手をつくしたが効果がなく四国巡拝の旅に出た。5月1日九番霊場でにわかに卒倒し、お大師様の不思議の利益をこうむり、不自由な言葉も自由になり、病気も平癒した。同行三人眼前にこれを見て霊験に感銘し、ここに報謝のため額面をかかせて当寺大師堂に納める」 第22番札所・平等寺に向かう途中で、大阪から来た大西三郎から聞いた大西の妻の出来事である。 大西の奥さんは片方の卵巣を除いているのでもう子供はないと観念していたが、子供に恵まれたい一心で夫婦で4日程度の巡拝を毎年続けている。昭和44年4月、84番屋島寺に参拝して山上で休憩していると、同様に休憩している老夫婦から話しかけられた。 「あなたたちは子供がなくて、願をかけて巡拝しているのじゃろうが」 「心から信心して廻りなさい、必ず子供はさずかる」と言われた。本年(昭和45年)2月めでたく女子を出産した。 来春は親子三人でお礼参りをするつもりである。 第10番藤井寺から第11番焼山寺までは二つの峠を越えて約12キロ、男性の足で9時間の道程。伊藤は朝6時に勤行を行い、7時に出発した。 「住職夫妻に送られていきなり裏山の急坂にとりかかる。人が一人ようやく通れるほどの小道、小石がごろごろ、大きな石が道をふさぐ、両ふりにはみぞにかわるのであろう。眼がちっとも離せぬ。やぶをかきわけ、枝をはらいのけ、道をさがして歩くありさま。(中略)一町行っては休み二町行っては休みしては息をいれる。」 昭和30年代からは峠を二つ越えるこの山道の遍路道に代わって、藤井寺から徳島に出てバスで焼山寺山麓まで行き、そこから3キロ登って寺に行くコースが利用されている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年02月20日 06時12分59秒
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