ここ2週間あまりでイマニュエル・ウォーラーステインを3冊、プリーモ・レーヴィを3冊、それに歌集と句集を1冊ずつ読んだ。このペースが長続きするはずはないが、二週間に限って言えば退職直後の読書量に匹敵する。
ひとえにわが老犬のおかげである。元気なころは朝晩2回の散歩に合わせて排泄も済ませていたのだが、最近は回数が増えて1日に4回ほどに増えた。老犬は私の枕元で寝ていて、夜中の12時から3時ころの間に必ず1回は起こされる。そこから本読みが始まる。もちろん途中で寝込んでしまうが、その分は予定外の読書時間となっている。
加えて、この2週間の間に老犬は膀胱炎となって排泄が2~3時間おきという状態が2日ほど続いた。きびしい寝不足になったが、読書はやたらに進んだ。抗菌剤の服用で老犬の膀胱炎はすっかり良くなったが、その分私の読書のペースは元に戻りつつある。
そう言えば、寒さが厳しくなったというのに最近は風邪を引いていない。体調がいいことも読書量に関係しているにちがいない。読書は体力勝負なのである。
元鍛冶丁公園から一番町へ。(2017/12/8 18:15~18:33)
金デモを2回続けて休んだ。本が読めたことが訝れるほど雑用が立て込んだのだった。その中に旧職場の大学関連の集まりが2回もあって、どちらも役員や幹事となっていて口実を捻り出してさぼるということができなかった。
私の休んだ2回の金デモには出張の多い若いスタッフが参加できて、デモの写真を撮っていた。今日はカメラが2台になると思っていたが、彼はまた出張らしく欠席だった。ただの偶然だが、よくしたものである。
今日から「仙台光のページェント」が始まって、市街の交通量も人出もがぜん多くなっている。渋滞に巻き込まれた金デモカーが10分以上も遅れて到着した。
フリースピーチの最後に、1月14日の金デモは14:00集会、14:30デモ出発の昼デモとなり、デモ終了後に「2018いよいよ正念場 みんなで語ろう! 飲もう! みやぎ金曜デモ新年旗開き」を仙台市市民活動サポートセンター6階セミナーホールで行うという案内があった。昨年までは忘年会ならぬ「望年会」だったが、休日にうまく重なったので新年会になったということらしい。
35人のデモは、一番町に出て「光のページェント」が行われている定禅寺通りから遠ざかるように青葉通りに向かって南下する。「光のページェント」に向かう人で一番町はごった返している。珍しそうにデモを眺める人が多いが、中には手を振ってくれる人もいる。
一番町のイルミネーションも「光のページェント」にタイミングを合わせたらしく、満艦飾と言っていいように飾り立てられている。
一番町(広瀬通りから青葉通りまで)。(2017/12/8 18:41~18:43)
イマニュエル・ウォーラーステインの名前は、『ローザの子供たち』[1] という本で知った。ローザ・ルクセンブルグの資本主義の世界性(「資本主義世界経済」)という思想を受け継いだアンドレ・グンダー・フランク、サミール・アミン、ジョヴァンニ・アリギなどとともに「ローザの子供たち」として紹介されている。
ウォーラーステインは、資本主義は国境を越えて世界に広がる「世界システム」であり、資本の蓄積・収奪関係によって世界は「中核core/半周辺semi-periphery/周辺periphery」の三つの地域に分けられるとした。
今回読んだ3冊は、『知の不確実性』[2]、『社会科学を開く』[3]、『史的システムとしての資本主義』[4]で、前に読んだ『ユートピスティクス』[5]、『ヨーロッパ的普遍主義』[6]と合わせて5冊を読んだことになる。
ウォーラーステインは、世界システムとしての資本主義は終末期に入っており、50年やそこらで資本主義は崩壊するだろうと主張する。しかし、資本主義の後にどのような世界システムが成立するかは予想できないと断言する。ローザの子どもらしく、かつての「正統マルクス主義者」のように資本主義の後に社会主義がやってくるという一国社会主義を前提にした脳天気な段階発展論を否定する。かれは、複雑系の不可逆的な非均衡プロセスのように初期条件の微妙な差が結果としての新しい世界システムの性質に大きな影響を与えるだろうと考え、民主主義や社会主義を求めるこれからの運動が重要な意味を持つと主張している。
プリーモ・レーヴィは、アウシュヴィッツから生還してラーゲル体験を作品化しているユダヤ系のイタリア人作家である。レーヴィは、ジョルジュ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』[7]で収容所体験の重要な証人として多くの引用とともに紹介されていて、ずっと気にかかっていた作家だった。
市立図書館で、たまたま『プリーモ・レーヴィは語る』[8]というレーヴィのインタビューを収録した本を見つけたが、アウシュヴィッツ体験を書いた作品のずっと後のインタビューを読んでももどかしいばかりで、『これが人間か』[9]と『溺れるものと救われるもの』[10]をあらためて借り出してきた。
『これが人間か』は、かつて『アウシュヴィッツは終わらない』というタイトルで翻訳出版されていた本の改訂版で、1943年12月にパルチザンとしてファシスト軍に捕らえられ、アウシュヴィッツに送られ、1945年1月にソ連軍に開放されるまでを描いた作品である。また、『溺れるものと救われるもの』は、アウシュヴィッツやファシズムについての評論集である。
アガンベンが言うように、レーヴィばかりではなくアウシュヴィッツから生還した人間たちは証言するのだが、いわば〈不可能な証言〉として語るのである。
……ここで繰り返すが、真の証人とは私たち生き残りではない。これは不都合な考えだが、他人の回想録を読んだり、年月を置いて自分のものを読み直して、少しずつ自覚したのである。私たち生き残りは数が少ないだけでなく、異例の少数者なのだ。私たちは背信や能力や幸運によって、底にまで落ちなかったものたちである。底まで落ちたものは、メドゥーサの顔を見たものは、語ろうにも戻って来られなかったか、戻って来ても口を閉ざしていた。だが彼らが「回教徒」、溺れたものたち、完全な証人であった。彼らの証言が総合的な意味を持つはずであった。彼らこそが規準であり、私たちは例外であった。(『溺れるものと救われるもの』 p. 87)
そして、第二次世界大戦終戦から28年後、いまから30年以上も前にレーヴィがファシズムについて次のように語るのである。
ファシズムは死んだどころではなかった。ただ身を隠し、ひそんでいただけだった。そしてファシズム自身のせいで起きた第二次世界大戦の大災害から、ようやく抜け出してきた社会に、ずっと適合した形をとっていた。前よりも分かりにくく、もう少しもっともらしい衣裳をつけて、再度姿を現わそうと、だんまりをきめこんでいる最中だった。(『これが人間か』 p. 233)
いま日本では、「だんまりをきめこんで」いたファシズムがあからさまに胎動し始めている。「再度姿を現わ」してきているのだ。ウォーラーステイン流に言えば、未来の世界システムはファシズムということだって否定できないのだ。
進歩は必然ではない。われわれはそれを求めて闘っているのだ。しかも、この闘いの形式は社会主義対資本主義というようなものではなく、比較的階級性の薄い社会への移行か、階級を前提とした何か新しい生産様式――史的システムとしての資本主義とは違うが、さりとて必ずしもそれより良いとはいえないもの――への移行か、という闘いなのである。(ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』p. 158)
革命の闘いで死んだローザ・ルクセンブルグの子どもと思えないような温和な闘いにいくぶん不満が残るが、ウォーラーステインは思想家ではない。社会学者なのである。いずれにせよ、「それを求めて闘かう」しかないのだし、なによりも「それ」をしっかりと見極めるしかないのだ。
青葉通り。(2017/11/17 18:50~18:54)
読み終えた句集と歌集は、『大道寺将司句集II 鴉の目』[11]と『道浦母都子歌集 花高野』[12]である。大道寺将司も道浦母都子も〈1968年〉前後の時代を激しく闘い抜き、前者は死刑囚として生を終え、後者は戦い抜いた心性を厳しく美しい言葉として詠みつづける歌人として生きている。
『鴉の目』の句は『棺一基 大道寺将司全句集』[13]収録作品と重複しているが、次のような句を抜き書きしてみた。
揺れやまぬ生死(しょうじ)のあはひ花芒(すすき) (p. 71)
鬼ならぬ身の鬼として逝く秋か (p. 89)
凍返る地に反戦歌甦れ (p. 95)
道浦母都子の歌は、『全歌集』[14]に収められた作品群と比べれば、予想以上に柔らかく優しくなった。歌集から3首を。
しんなりと首垂れているダチュラ もうわたくしはうなだれないの (p. 37)
「シニア左翼」と呼ばれるわれも揺り椅子にくつろぐわれもいずれも私 (p. 83)
このスニーカーで国会前に行ったのだ靴ひも洗う寒の真水で (p. 229)
[1] 植村邦彦『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性――世界システムの思想史』(平凡社、2016年)。
[2]イマニュエル・ウォーラーステイン(滝口良・山下範久訳)『知の不確実性――「史的社会科学」への誘い』(藤原書店、2015年)。
[3] イマニュエル・ウォーラーステイン+グルベンキアン委員会(山田鋭夫訳)『社会科学を開く』(藤原書店、1996年)
[4] イマニュエル・ウォーラーステイン(川北稔訳)[9(岩波書店、1985年)
[5] イマニュエル・ウォーラーステイン(松岡利通訳)『ユートピスティクス――21世紀の歴史的選択』(藤原書店、1999年)
[6] イマニュエル・ウォーラーステイン(山下範久訳)『ヨーロッパ的普遍主義――近代世界システムにおける構造的暴力と権力の修辞学』(明石書店、2008年)
[7] ジョルジュ・アガンベン(上村忠男、廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、2001年)。
[8] プリーモ・レーヴィ(マルコ・ベルポリーティ編、多木陽介訳)『プリーモ・レーヴィは語る――言葉・記憶・希望』(青土社、2002年)。
[9] プリーモ・レーヴィ(竹山博英訳)『これが人間か』(朝日新聞出版、2017年)。
[10] プリーモ・レーヴィ(竹山博英訳)『溺れるものと救われるもの』(朝日新聞出版、2014年)。
[11] 『大道寺将司句集II 鴉の目』(海曜社、2007年)。
[12] 道浦母都子『歌集 花高野』(角川書店、2017年)。
[13] 『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版、2012年)。
[14] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社、2005年)。
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