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「訳注 静岡県報徳社事蹟」の表紙裏には、鈴木藤三郎の「報徳全書」を報徳二宮神社に奉納したときの願文を入れた。
また裏表紙の裏には報徳訓を入れた。 ≪報徳訓≫ 父母根元在天地令命 身體根元在父母生育 子孫相贖在夫婦丹精 父母富貴在祖先勤功 吾身富貴在父母積善 子孫富貴在自己勤労 身命長養在衣食住三 衣食住三在田畠山林 田畠山林在人民勤耕 今年衣食在昨年産業 来年衣食在今年艱難 年々歳々不可忘報徳 報徳訓を読み下すと次のようになる。 ≪報徳訓 読み下し≫ 父母の根元は天地の令命に在り 身体の根元は父母の生育に在り 子孫の相続は夫婦の丹精に在り 父母の富貴は祖先の勤功に在り 吾身の富貴は父母の積善に在り 子孫の富貴は自己の勤労に在り 身命の長養は衣食住の三つに在り 衣食住の三つは田畑山林に在り 田畑山林は人民の勤耕に在り 今年の衣食は昨年の産業に在り 来年の衣食は今年の艱難に在り 年年歳歳報徳を忘るべからず 「報徳講座」では、冒頭に報徳訓を全員で朗誦する。 声をそろえてよむと「心相寄っている」*感じになりよろしい。 まことに「報徳講座」は「一座建立して寿福をなす」場でもある。 報徳訓の世界は、天地から 私たちの父母の父母、そして父母、私たち、そして私たちの子や孫へ という時系列の世界観と、私たちをとりまく今の世界とから成り立っている。 「人は天地の恩徳と、親、先祖の恩徳によって、この世に生まれた。 私たちは、いろいろなものの恩徳によりこうして今生かされている。 その恩徳に報いることが報徳であり、人の道である。 私たちが豊かな暮らしが出来るのは、かつての先祖や先人の努力のお陰である。 そうであれば私たちもまた子孫が豊かな暮らしをするため、一生懸命に働かなければならない。 長生きをするには、衣食住のバランスをよくしなければならない・ 衣食住を良くするためには、田畑、山林を良く手入れしなければならない。 今年の暮らしは昨年働いたもので、来年の暮らしは今年働いたものである。 年々歳々、決して報徳を忘れてはならない。」 北海道の佐呂間漁協はこの報徳訓の 「今年の衣食は昨年の産業に在り 来年の衣食は今年の艱難に在り」を実践することによって 組合員が1億円以上の資産を持つようになったという。 「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎ー報徳の師父-」新版の85頁にそのエピソードをコラム「現代に生きる報徳」としていれた。 「人生二度なし」(「修身教授録」森信三)301~307ページ抜粋 先生は今日はモーニングを着用して来られた。一礼の後、『人生二度なし』という題と共に、次の歌を無言のまま板書された。 高山の頂にして親と子の心相寄るはあわれなるかな 島木赤彦 そしておもむろに出席を取られ、ついで口を開かれた。 諸君この歌のうちで一番いいところはどこだと思いますか。誰か分かりませんか。生徒の一人が立って「心相寄るはーというところが好きです。」と答える。先生うなずかれてそうですネ。 ここが一番よいところです。これは赤彦でなければ言えないところです。・・・赤彦は学歴としては、長野師範学校を出ただけです。それでいて万葉以後の歌人となったのです。それゆえ諸君が志を立てるには、明治以後の人のうちでは、最もよい目標の一人といえましょう。 とかく人間というものは、地位とか学歴とかに引掛っている間は、真に徹底した生き方はできないものです。学歴というようなけち臭いものに引掛っている間は、その人の生命は十分には伸び切らないからです。もちろん一方では、人間は自分の地位、さらには学歴というようなものについての謙虚さがなくてはなりません。しかしながら、その内面精神においては、一切の世俗的な制約を越えて、高邁な識見を内に蔵していなくてはならぬのです。すなわち外なる世間的な約束と、内なる精神とを混同してはならぬのです。 そもそも人間というものは、その外面を突き破って、内に無限の世界を開いてこそ、真に優れた人と言えましょう。同時に、またそこにこそ、生命の真の無窮性はあるのです。・・・・・・ さて、われわれのこの人生は、二度と再び繰り返し得ないものであると言っても、諸君らはあまりたいして驚かないかもしれません。またそれは一面からは、もっともなことでもあるわけです。現にかく申す私なども、諸君らくらいの年頃には、この人生の最大事実に対しても、一向に無関心でいたからです。・・・そもそもこの世の中のことは、大抵のことは多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」という真理のみは、古来ただ一つの例外すらないのです。しかしながら、この明白な事実に対して、諸君たちは、果たしてどの程度に感じているでしょうか。すなわち自分のこの命が、今後50年くらいたてば、永久に消え去って、再び取り返し得ないという事実に対して、諸君たちは、果たしてどれほどの認識と覚悟とを持っているといえますか。諸君たちが、この「人生二度なし」という言葉に対して、深く驚かないのは、要するに、無意識のうちに自分だけはその例外としているからではないでしょうか。 もちろん諸君らといえども、意識すれば、自分をその例外であるなどと考えている人は、一人もないに相違ないのです。だが同時に諸君は、自分もまたこの永遠の法則から免れないものだということを、どこまで深刻に自覚していると言えるでしょうか。これ私が諸君に向かって「人生二度なし」と言っても、諸君がそれほど深い驚きを発しないゆえんだと思うのです。 要するにこのことは、諸君たちが自分の生命に対して、真に深く思いをいたしていない何よりの証拠だといえましょう。すなわち諸君らが二度とない一生をこの人の世にうけながら、それに対して、深い愛惜尊重の念を持たない点に基因すると思うわけです。・・・・・・ われわれは、わずか一日の遠足にさえ、プランを立て、調査をするわけです。しかるにこの二度とない人生について、人々は果たしてどれほどの調査と研究とをしているでしょうか。否、この「人生二度なし」ということさえ、常に念頭深く置いている人は少ないかと思うのです。これ古来多くの人が、たえず生きかわり死にかわりするけれど、しかも深く人生の意義と価値とを実現する人の意外に少ないゆえんかと思うのです。 そもそも人生の意義については、いろいろ考え方がありましょうが、われわれ日本人としては、自分が天から受けた力をこの肉体的生命の許される限り、十分に実現して人々のために尽くし、さらにこの肉体の朽ち果てた後にも、なおその精神がこの国土に残って、後にくる人々の心に、同様な自覚の火を点ずることにあるかと思うのです。 かくしてわれわれが人間としてこの世に生まれてきた意味は、この肉体が朽ち果てると同時に消え去るのでは、まだ十分とは言えないです。というのも、この肉体の朽ちると共に、同時にその人の存在の意味も消え去るというのでは、実は肉体の生きている間も、その精神は十分には生きていなかったという、何よりの証拠と言ってよいでしょう。 尊徳翁はその「夜話」の中で面白いことを言っています。それは「生きているうちに神でない人が、死んだからといって、神に祀られる道理はない。それはちょうど、生きているうちに鰹でなかったものが、死んだからといって、急に鰹節にならぬのと同じだ」という意味のことを言っていますが、さすがに大哲人の言葉だけあると思います。ですから、生前真にその精神の生きていた人は、たとえその肉体は亡びても、ちょうど鐘の余韻が残るように、その精神は必ずや死後にも残ることでしょう。 こう考えてきますと、諸君らは生れて20年、今こそここに志を立てるべき時です。・・・このような志が真に確立しない限り、諸君らは真に深く自分の生命を愛惜するとは言えないでしょう。何となれば、真の精神は不滅であり、いかに凡人でもその生涯を深い 真実に生きたならば、必ずやその死後、何らかの意味でその余韻を残しているからです。・・・人間が死後にも生きる精神とは、結局はその人の生前における真実心そのものだということです。すなわち、その人の生前における真実の深さに比例して、その人の精神は死後にも残るわけです。 かくして人生の真のスタートは、何よりもまずこの『人生二度なし』という真理を、その人がいかに深く痛感するかということから、始まると言ってよいでしょう。」 と言われて、先生は黒板を正しく縦に消されて、一礼して静かに退室された。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.12.25 05:03:49
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