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カテゴリ:光圀の諸国への旅
祭りの名前は「下町祭り」だ。和太鼓は定番の行事だそうだ。さすが東京随一の大きい神社である根津神社エリアだと思う。この和太鼓を叩くグループは実にこのあいそめ町の人ではなく、同じ根津エリアの近くの住民だそうだ。 そして今年の下町祭りの行事の一つは、11月3日から5日までお台場で行われる「夜さ来い祭り」への一つの出場チームを招いて、踊ってもらうのだ。そのチームの名前は朝霞真誠塾だ。朝霞というのは埼玉県朝霞市のことだ。真誠塾は「新選組」と同じ発音ということだ。チームのメンバーの服で「誠」の字が書いてあるからわかった。かなり活気があって、賑やかな踊りだと思う。 実はこのあいそめ町の本来の名前は「元屋敷」ということだ。なぜなら六代将軍徳川家宣が将軍に就く前に、つまり甲府宰相時代の屋敷は根津のあいそめ町にあるということなので、、あいそめ町は元屋敷と呼ばれたからだ。 その家宣の将軍継承をめぐって、徳川幕府には多くの出来事が起こった。まず、甲府宰相綱豊を六代に継承させることに支持した水戸光圀は五代の徳川綱吉の自分の息子を将軍に継承させようとすることによって、隠居まで追い込まれざるを得ない状況となった。 気の毒なのは、綱吉を将軍に就かせたのが光圀だった。もちろん綱吉の子がのち夭折したため、綱吉は綱豊を世継にせざるを得なかった。だが光圀の隠居と綱吉の庶民を苦しめる政策によって、関係があると見なされた出来事が少なくない。一つは、廃藩された赤穂藩の浪人グループがそれに関わった吉良上野介を殺したことは庶民に忠義と認められて、忠臣蔵のストーリーとされた。本来それはただ浪人の集団的な報復行動だけだと言ってもよいことだが、忠義の象徴となった。もう一つの出来事は光圀が死んだ時、民間からある漫談が盛んになったのだ。しかもその漫談は50年代頃の映画をはじめ、60年代末にドラマさえになって、放送されている。それ漫談の名前は水戸黄門漫遊記だ。ドラマの名前はもちろん、水戸黄門だ。 次に、家宣がなくなった時、家宣の父である綱重の生母と綱吉の生母の間の激しい大奥での闘争によって、家宣の妻はのち自分を苦しめた綱吉の婿である尾張大納言の徳川吉通を七代将軍に就かせることに反対していた。そのため間部詮房や新井白石が偽の家宣の遺言書を書き直したことで、幼い家宣の遺子で、4歳の鍋松は七代将軍になったという噂がある。 だが、体が弱いので、家継は8才の時に風邪でなくなった。その上、家宣の妻(月光院)は尾張と紀州の八代将軍への闘争に手を出した。月光院の支持を得ることで、幕閣からの支持が得られるようになって、勝出したのは、あの暴れん坊将軍だ。吉宗の改革がなければ、財政の悪化、幕閣内部の汚職、庶民が高い税金によって苦しまれたことで基盤から上まで崩れてきた徳川幕府は15代まで続くことができなかろう。また、再び将軍継ぎから敗退した尾張の徳川継友(吉通の弟)がそのせいで死んだため、継友の弟である宗春は吉宗への敵視によって、享保の改革に反対して、吉宗の命令を無視し続けた。しかし、奢侈および浪費する政策で、尾張藩の財政が悪化してしまった。そのため、本来幕府との対立への不安が噴けない尾張藩の藩臣はついに幕府と手を繋げて、宗春を隠居させて幽禁した。 米価格の高騰などの行き詰まりによって、享保の改革は成功したとは言えない。さらに、年貢も家宣、家継時代より5割高くなったため、人口の伸びが停滞し、一揆も増えたのも事実だ。しかし、史家は享保の改革への評価があまり高すぎるような気がする。(たぶんある時代劇からの影響なのではないかとわしは思っている) これに対し、宗春の浪費も単なる浪費とは言えない。一時期で、経済的に名古屋は江戸より繁栄したという事実も史家に認められた。また、今の名古屋市の基礎を築いたのは宗春時代だ。 即ちただの一つの出来事はのちの歴史に莫大な影響を与えることができるかもしれない。 ドリーム夜さ来い お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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