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テーマ:中国史(3)
カテゴリ:絵画・拓本・収集
この拓本は或る高名な書家・篆刻家さまから譲って頂いたもの(購得)。 調べたらたいそうな人物の妻の墓誌銘だった。 長い中華の歴史の中で名君は誰か?という問いに必ず名前があがるのが、唐の太宗「李世民」である。その他、後漢の光武帝「劉秀」、北宋の太祖「趙巨胤」、清の聖祖「愛新覚羅玄燁」(康熙帝)等は、同様に必ずあがるらしい。 同じく、中華最強は誰か!?という問いも目にする。三国志で有名な「関羽」、「張飛」の義兄弟コンビ、楚の覇王「項羽」、北魏の車輪眼「楊大眼」、抗金の英雄で万人敵こと「韓世忠」、救国の英雄「岳飛」などの名前がよくあがる。 その最強を決める問いで先にあげた英雄たちに負けず劣らずの大豪傑が、「尉遅敬徳」うっちけいとく、である。敬徳 は、字名で本名は恭 きょう、という。 敬徳の妻の蘇娬(そぶ、589年 - 613年)は、24歳の若さで亡くなり、鄂国公夫人を追贈された。この拓本は彼女の墓誌銘であり、李世民の墓である昭陵に陪葬された200人の中の1人である。 尉遅敬徳(うっち けいとく、中国語 尉遲敬德、尉迟敬德 Yùchí Jìngdé、585年 - 658年11月26日)、尉遅恭(うっち きょう、尉遲恭、尉迟恭、Yùchí Gōng)は、中国の唐の軍人。 唐の統一に貢献した二十四功臣のひとり。 [経歴] 隋の儀同の尉遅羅迦の子として生まれた。 大業末年、高陽で従軍して、翟松柏・劉宝強らを討伐して功績を挙げ、朝散大夫となった。 ある時敵将が隋の皇帝の馬をこれ見よがしに乗っていた。李世民は部下に対し「誰かとるにやあらんか」と聞くと尉遲敬德はたったの2騎を連れて敵将を見事撃破し皇帝の馬を李世民に献上したという。 また劉黒闥という武将が唐に反乱を起こした際に完全なる奇襲だったため李世民は完全に包囲されてしまい絶体絶命の危機に陥ったのだが、尉遲敬德はたちまちにその囲みを破り李世民の命を救ったというエピソードもある。 たった1人で呂布や項羽や趙雲などの豪傑のエピソードを合体させたような武将である。 唐代の多くの墓誌の4周に12支が刻されているが、昭陵博物館に現存する尉遲敬徳墓誌とその夫人の蘇氏墓誌の12支は、造型的にも、細工の技法的にも石刻芸術の珍品といえるらしい。確かにペルシャ絨毯と間違えるような細密な紋様である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.03.26 18:02:19
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