テーマ:詩&物語の或る風景(1047)
カテゴリ:博物学・雑学・歴史・薬学のすすめ
あぢさゐの 八重咲くごと弥(や)つ代にを いませ我が背子 見つつ偲ばむ (橘諸兄) 紫陽花の花が八重に咲くように、御代八代も何代も健勝でいらしてください、そして花を眺めるたびにあなたを思い出します。(通釈より) この歌は、天平勝宝7年(755)五月、丹比国人の邸に招かれた際に庭の紫陽花を見て、国人の長寿を祝って詠んだ歌です。 紫陽花を詠んだ歌は、万葉集に二首あるのみです。 当時、紫陽花といえばガクアジサイが主流でしたが、国人の庭園には当事としては珍しい八重咲きの紫陽花が植えられていたのでしょう。 一首の歌から、そんな貴族のセレブな暮らしを垣間見ることができます。 中世日本史を彩る有力諸氏を指して、"源平藤橘"などといいますが、中でも橘氏の姓は、藤原不比等の妻の県犬養三千代に与えられたことにはじまります。 三千代は、敏達天皇の曾孫の美努王と結婚して葛城王と佐為王を産みますが、のちに離婚して藤原不比等と結婚し、安宿媛(あすかべひめ)を産んでいます。 藤原氏の黄金時代は、安宿媛がのちに聖武天皇の皇后(光明皇后)となったあたりからはじまるのでした。 三千代は軽皇子(文武天皇)の乳母を務めていましたが、皇子の実母の阿部皇女に気に入られ、皇女が元明天皇として即位した時に橘の姓を賜ります。 三千代は天平5年(733)に病没。 その死後子供の葛城王、佐為王は帝に願い出て橘の姓を継ぐことになり、二人は天平8年(738)に臣籍に下って橘諸兄、橘佐為となりました。 橘諸兄は、天平10年(738)から15年まで右大臣に登り詰め、その後、疱瘡の流行により、権勢を振るっていた藤原氏の相次ぐ病没によって左大臣となりますが、藤原仲麻呂の台頭によって引退し、翌年薨去します。 橘諸兄の妻は多比能といい、一説には不比等の娘ともいわれていますが、定かではありません。 二人の間に産まれたのが橘宿禰奈良麻呂(たちばなのすくねならまろ)で、のちに仲麻呂の政権に危機感を募らせ、奈良時代の政争史の中でも有名な橘奈良麻呂の乱を企てて刑死します。 橘奈良麻呂の乱を乗り切り、光明皇后の信任を得て一時代を築いた仲麻呂も、道鏡排除を企てて乱を起こし、最後には非業の死を遂げるのでした。 "もしも"という言葉は歴史にはタブーですが、もしも、疱瘡の流行がなければ、諸兄が政界の中枢に登り詰めることもなく、奈良時代はまた異なる時代になっていたでしょう。 諸兄、奈良麻呂親子にとっても、その方が平和で幸福な日々を送れたのかも知れませんね・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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アジサイも旬だね、、もしものことあれば、うん、
歴史は変わっていたかもしれないね^^。 (2009年06月28日 22時46分59秒) |
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