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テーマ:海外生活(7775)
カテゴリ:タコ生徒・学生期
「タコさんね、こんなちっぽけなビジネスですけどね、これでも年商1億円はあるんですよ。」
岩村文具のご主人が、西武池袋線東久留米駅の近くの小料理屋で食事をしているときに囁いた。1974年、私はその年の6月に初めてアメリカに海外旅行することになっていて、ちょっと前の大学の春休みにこの会社でバイトをしていた。従業員はパートが6人、バイトの学生が私を入れて4人だった。 この頃の1億の価値はすごいものがあった。この会社の仕事は、小学校の文具、テストなどの卸だった。バイトは、粘土などの工作の教材なども含めすべての教材の運搬の仕事が主なものだった。 毎日、軽自動車に乗って地域の小学校に教材を運搬していた。二人で回ることもあったが、すぐに慣れて一人で車を運転して、地図を頼りに学校周りの毎日だった。 その頃、ラジオでほとんど毎日聴いていた曲がある。森進一の「襟裳岬」と、海援隊の「母に捧げるバラード」だった。 ♪ おまえも故郷を捨てて花の都へ行くかぎりは 輝く日本の星となって帰ってこいよ。 行って来い どこへでも ♪ 母に捧げるバラードの母親のこのセリフが強烈に脳裏に焼きついてしまった。 海外移住を決めたときに、そして今も、この歌のセリフが時々思い浮かぶ。 「輝く日本の星」にならないと帰れない。ハードルは可也高い。私は、あと3年半もすれば還暦なのに、未だタコを干す物干しくらいにしかなれていない。 岩村社長は、当時70歳を超えていた。文具一筋の社長だった。 21歳の春、この岩村文具での仕事を通して社長とお話させていただいたことと海援隊の歌に大いに刺激を受けた。そういえば社長、頭がツルツルでタコのような方だった。そこだけは将来、自信をもって踏襲させていただけそうな気もしてはいるが。 無理して二つクリックお願いいたします! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008年12月29日 20時14分30秒
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