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カテゴリ:ミンツバーグ研究
ケースメッソッドの利点は次の5点だ。(p71-p72) 1. 教室でマネジメントの現実に接することができる。 2. 「大局的」なものの見方に触れられる。 3. ゼネラリストたるマネージャーに必要なスキルを修得できる。 4. 「型にはまった考え方に疑問を投げかける」 5. 学生が授業に参加できる。 ミンツバーグは、これが「果たしてケースメソッドの長所と言えるのか」と疑問を投げかけ、つづけて「整然と並んだ座席に何十人もの学生が腰掛けて、前の晩に読んできた資料について意見を述べ、『リーダーシップのエッセンス』を学び、『大局的なものの見方』を身につけ、『自分の決定に対する責任感』を養い、『実践を通じて学習』し、『どんな状況にも慌てない』よう準備し、『リスクを恐れない』ようになり、『ゼネラリストたるマネージャー』に育つ。どれもこれも馬鹿げて聞こえる」(p73)とまでこきおろす。 何がいけないか?次の5点である。 第一が「意思決定・分析至上主義の弊害」。 ケースメソッドは「論理的な結論を導き、他人を説得するスキルを養う上で間違いなく役立つ。しかしこの点が強調され過ぎると、マネジメントのプロセス全体がゆがめられかねない」と警告する。マネージャーの仕事は、わずか 10~20ページのケースに閉じこめられるほど単純なものではない。ケースには、意思決定の前提となるデータはあらかじめ用意されているが、暗黙の知識はまったく与えられていない。それを材料に、議論白熱して甲論乙駁の意見を戦わせたところで、所詮は「コップの中の嵐」に過ぎず、現実味に欠けると言うのだろう。 第二が「軽んじられるソフトスキル」。 「ケーススタディで扱う範囲はもっと広いと主張する人たちもいる。実行、リーダーシップ、倫理などの『ソフトスキル』についても検討しているという。本当にそう言えるだろうか」と疑問を呈する。資料を読んで解決策を話し合うだけで、リーダーシップが養われ、倫理観が身につくだろうか、との疑問は、私にもある。 第三が「しょせん直接の経験ではない」こと。 論拠として、哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの「お勉強で学んだ世界が陳腐なのは、直接経験したことがないからだ」という言葉や、スターリング・リビングストンの「(ケースメソッドでは)責任を問われることもなく、行動を取るチャンスもない状況では、『実務の場でなにがうまくいき、なにがうまくいかないのかを自分自身で発見する』ことなどできるわけがない」などを紹介している。全くそのとおりと言わざるをえない。 第四が「教室内民主主義の実態」 ハーバードの教授アーサー・ターナーは、1981年の論文「ケースメソッド再論」で「教室内民主主義」を批判した。ケースメソッドの授業で、「学生間のコメントは、学生・教員間のコメントに比べて著しく少ない。・・・こうした授業は『討論』というより、教員と学生の『対話』にすぎない。」とみたのである。教員は、自分の好む方向に学生を導いているということか。 第五が「ケースから先入観を排除できない」こと。 行政部門の研究論文がビジネス教育にあてはまるかもしれないとしてとして、 「ケーススタディではほぼ例外なく(主人公が)ヒーローの如く振る舞う。・・・中間レベルのマネージャーはあまり中心的な役割を果たさず、氏名もろくに紹介されない。下級レベルのマネージャーにいたっては、知識の有益な供給源としてとしてすら(めったに)言及されない」という部分を引用する。これでは、全体像を把握していることにならない。ケース教材から執筆者の先入観を完全に排除することは不可能だというのである。 ミンツバーグは、ここまで「ケースメソッド」に異議を唱えてきたが、「ケースメソッドをやめろ」というのではない。「悪いのはケースではなく、ケースの偏重」と題し、次のように結んでいる。 「勘違いしないでほしい。私はケースメソッドそのものを否定しているわけではない。ストーリーとしてのケース、言い換えれば経験の記録としてのケースは、役に立つ場合もある。」 として、続けてその条件をのべている。 「ただしそのためには、歴史的経緯を含めて、複雑な現象を尊重することが条件になる。ケーススタディは実体験を補足するものであって、実体験を代用品になるものではないという点をわきまえれば、ケースはいろいろなビジネスの状況に触れる上で極めて強力な手段になりうる」と。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Apr 18, 2010 06:46:20 PM
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