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ザビ神父の証言

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2013.01.02
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カテゴリ:日本史
クロニクル 長州藩の内乱勃発 倒幕派台頭

1865(元治2)年1月2日
 
禁門の変(1864年7月)で幕府軍に敗れた長州藩は、京の都を灰燼に帰した責任を問われ、主だった幹部が戦死した尊皇攘夷派の勢力は著しく後退しました。
 
ここに8月の4国連合艦隊による下関砲台の砲撃事件が加わり、攘夷論がいかに現実離れした空論であったかを思い知ることになりましたた。こうして、11月の第1次征長軍の攻勢に敗退後、幕府に屈服してひたすら恭順の意をあらわす「恭順派」が藩政を握りました。

ここに、上士層のみでの戦闘にあき足らず、時代の将来を見据えて、下士や町人・農民層らにも門戸を広げた奇兵隊を初めとする諸隊にも解散命令が出されました。

当然、諸隊には大きな不満が残りました。こうした情勢下に、吉田松陰門下の高杉晋作ら急進派は、12月中旬から叛乱の機会を狙い、148年前のこの日、高杉は諸隊の一つ遊撃隊を率いて下関を襲撃、恭順派の門閥士族を「俗論党」と断じて、藩内に広く決起を促しました。
 
この呼びかけに呼応して、奇兵隊や伊藤博文の力士隊などの諸隊は各地に決起、次々に上士中心の藩庁軍を撃破、萩城下に迫りました。こうして内乱は急進派の勝利に終り、長州藩は大きく倒幕の方向に舵を切ることになりました。

5月には、但馬の出石に潜伏していた桂小五郎も帰藩、木戸孝充と改名して藩政に復帰、藩の実権を掌握すると、村田蔵六(後大村益次郎)を登用して軍政改革を推進、予測される第2次征長への備えを固めるに到るのです。
 
幕末動乱に新しいページを開いた一齣でした。









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最終更新日  2013.01.02 01:23:14
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