2022/06/01/水曜日/風は涼やか
〈DATA〉
講談社/砂原浩太朗
2022年1月11日 第一刷発行
〈私的読書メーター〉〈久しぶり、エンタテイメントとカタルシスの読書を味わう。書くべき筋を予め省いて後の物語展開中に意外性と盖念性のモアレ感が現れツイツイその先へとページをめくらせる。神山藩の重鎮をなす黛家。知勇に優れた兄二人の下でいかにも幼い末っ子新三郎の少年期。乱世ならその能力を存分に発揮しただろう小兄を目付役の立場から断罪せざるを得ない謀略に見舞われる壮年期。物語はその二部からなる。「人の死なない」政に思いが至るまで新三郎を育てたのは優れた身内だけではない。慟哭、斬鬼をもたらした老獪な大敵でさえ自らの養いとした彼の器こそ。〉
黛家は長男栄之氶、次男壮十郎、三男新三郎の男ばかり三人の息子がいた。母は新三郎が幼いときに亡くなりどうやら父は後添えを纏ってない様子。父は神山藩筆頭家老の家柄だ。
何となく藤沢周平が彷彿とされるけれど、武士中間管理職悲哀よりも行政トップの権力闘争の模様。
藩の経済行政、民の安全幸福をどのようにマネジメントしていくか。武士が官吏と政治家と警察権と立法権の全てを兼ねておりその責任はいやが上にも重い。
そこへお家の大事も絡み、藩主の後継を身内が生そうものならこの世の春さながら。主君というのは据えられた人形の如きものなんだなぁ。
にしても17歳の新三郎はいざ知らず、30歳を過ぎた辺りの新三郎、いやさ黒沢の婿養子となった織部正、人間が出来過ぎではないか。全てを飲み込んでこんな雑草と生きられるものかは。
当時と今では寿命が違うと言い状、四十にしても惑い続けた幼稚な自分と友垣は所詮武士でなく町民の子なんですかねー
壮十郎の「こうとしかならぬ」はよい。かくすればかくなるものと知りながら、こうとしかならぬ一徹振りは理解できる。
女性の描き方があんまり上手ではない故、共感の湧く或いはとことん鏡を見るようなおんな相が一筋も無い。故の儒教の武士の世を描くに向く作家ということかしらん。