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かたく が八坂神社で『翁』を演ずるというので、行ってみることに。 朝六時半起きはちょっと辛い。 八坂神社の能舞台 がらがらの東大路通り、八坂さんの境内も出店の用意する人がちらほら、一般の参拝者はぱらぱら・・・。 九時始まりで30分前にはついていたのに、能楽堂の前だけは、もうこんな人。 ゆかしく優美な舞台だと思った。 鏡板の松が遠景。この遠景なのが、広々とした松原で舞っているような風情で、とても良かった。 『翁』 翁 片山九郎右衛門 面箱 茂山逸平 三番三 茂山千五郎 千歳 分林道治 笛 杉市和 小鼓頭取 曽和尚靖 大鼓 石井喜彦 平安神宮の「日吉式」は翁も三番三もずっと直面だったが、今回のは、舞台上で面をつける。 その面をつけるところは、とてもドラマティック。ただの面でしかなく、精霊か魂魄のようなものでしかない神が、目に見える存在として、肉体を得る瞬間。同時に、限りある生を生きる存在でしかない生身の役者が、神を宿すことで、能舞台という神聖な場で、神の時間=永遠の生を得る瞬間。神は肉体を得て現世に姿をあらわし、役者は神を宿し永遠の存在となる瞬間。ふだんの能では、決して客は見ることができない、鏡の間で行われている儀式。 直面で舞台に現れ、面もちは厳しいものの、ただの生身の能役者に過ぎなかったかたくの立ち居振る舞いが、突然変化する。立っているだけで、もう、それは生身の肉体を超越した存在感。蝉丸とも、住吉明神とも違って、神気のようなものがかたくの身体に凝縮し、翁の福々しい笑みとともに舞台を見るもの、さらにはその向こうへと放出されている。 芸術とか芸能とか、そういう枠では捉えきれない、能の持つ始源の深みをかいま見るよう。 以前から、能というのは、芸術や芸能である一面とともに、面に肉体を与えることによって生身の人間が面の持つ永遠性の中に溶けこむことでは、と思っていたが、まさに、そんな瞬間を目の当たりにした感動。面のもつ永遠性の中に溶けこむことを意識的な美によって昇華したものが、いわゆる芸術としての、能。 いや、翁の表情は福々しいというよりも、常に、照り輝いていて、見つめ続けているとこちらが吸い込まれてしまうか、あるいは、自分というものが溶けて壊れてしまうのでは、というぼんやりとした抵抗も感じた。凡百の人間である僕は、そんな光に照らされ続けてはマズい部分も満載している。それらもあわせて「僕」なわけだから、そんな部分まで翁の輝きに照らされれば、「僕」は「僕」ではなくなってしまうのだ。 神気というか霊気というか、そういうものが凝固し、一点の曇りもない澄み渡った青磁のように凛とした気が漲るかたく。それでいて笑みのこぼれる翁にふさわしいおおらかな美がかたくを支配している。 三番三の茂山さんは、平安神宮でも。 かけ声、というよりは叫び声、また、叫ぶときの歯をむき出しにした表情や横っ飛びなどのどこかケモノ的な動作を見ていると、三番三というのは、猿の神か? とか思えてくる。支配王朝に征服された他部族の神。叫び、歯をむき出し、肉体的優位、武力的優位を誇示するために激しい舞を舞って猛威を振るう土着の神を、輝く笑みによって威圧し、制圧し、支配し、ついには統治する、雅な白翁。笑みによって醇化された荒ぶる神は、黒翁となり、鈴を持って舞い(それまでいやがっていたのが、鈴を持たされて嬉々として舞うところも、どこか、まだ、ケモノチック)、ふたたび己と己の領土が荒ぶる神に侵犯されないよう、鈴によって禊ぎと祓いをしてまわる・・・などと、そんな古代の記憶が幻のように折り重なって蘇る・・・。 (ほんとのところは、白翁が何であり、黒翁が何であるか、僕は知らないけど^^。なんか、個人的にそう見えた、ということです) 平安神宮のまるでロック系のビートのようだった囃子とも違って、今回は優美な囃子。 鼓と鼓の響きに、拍というのではなく、旋律を感じる。優美で、なめらかな、春の風のような旋律。しかも、音と音とのあいだ、鼓の残響ではなく、実際は音がしていない空白にも、その旋律、春風は充ち満ちている。 能面にやどる業や性、精霊や魂魄を目に見えるものにする能役者の肉体、同時に、能面の持つそれらのものと一体になることで永遠という時間性と美を獲得する能役者。しかも、能面は、謡によって吹き込まれもし形づくられもする見るものの魂魄や情動をも吸いとり、刹那の汀のように映し出す。能を観るとは、僕にとって、面と役者と謡と囃子と見ている自分がつくりだす汀にただよう刹那の夢、刹那の幻と戯れること・・・。 *** 金剛流「謡初式」。 八坂さんの奉納が終わって、烏丸一条の金剛能楽堂へ。 八坂さんで、きんえいさんが『高砂』の仕舞。ラストの数節。あっさり。 いいなと思ったのは、仕舞『岩船』の種田道一さん。 謡の詞章は、これといったドラマもなく、叙情的でもなく、叙事的な、ある意味退屈なもの。それなのに、道一さんの舞には魅せるものがあった。短かったのでどこがどうしてなのかわからないけど、よかった。 もう一人、仕舞『竹生島』の廣田泰能さん。 そう、平安神宮で、『八島』の義経の仕舞をした人。 キレのある身のこなしで、凛々しい。というか、オペラのテノールのリリコといった舞。カルーソーの高音、または、若かりしドミンゴの高音。「太陽神アポロのような」パヴァロッティではないけど。要するに、水も滴るいい男、恋する若い男、という感じの役柄の声。そんな声を感じさせる舞。 水も滴る凛々しい若者の龍神、そして、義経。龍神の、神としての超越性やスケールの大きさ、恐ろしさなどは裡に秘めて、凛々しい若い男に変じた龍神が目に浮かぶようでよかった。 義経は、実際は、猫背で、出っ歯、源氏の大将としては恥であると本人も思っていたような、小柄な体格。でも、それはさておき、『八島』では、修羅に落ちてなお戦に明け暮れる業をもった恐ろしげな、おどろおどろしげな、かつ、猛々しいような義経だが、そうではない、美しく凛々しい義経、それもいいな~と。舟戦をしてる義経なんだから、錦の鎧直垂からは水も滴ることだろう? から・・・(とは言いつつ、実際に見たことはないけど、義経の平太という面は、なんか、貧相で、どこかものに憑かれているようなところがある。とても、水も滴る、恋するいい男、ではない。まあ、死んでもなお戦してるんだから、それはそうかも知れないけど・・・) あと、金剛能舞台の照明について。 舞台の上から照明を照らしているというのは真下で舞っている時はいいけど、舞台の端に来たとき、顔が翳ってしまう。屋外の八坂さんの場合舞台の端に来ると顔が明るくなり、それが自然、と思える。イマサン、くらい。 でも、鏡板の松はなかなか、好み。 *** もののついで。 鏡板に松、切り戸の壁に、竹。 とくると梅を探したくなるけど、どうして梅がないのだろう?(鏡板に松竹梅のもあるらしいけど、一般には、梅は見つからない) ずっと不思議に思っていた。 「秘すれば花」の「花」とは、梅のことなのだろうか? 古今集も含めて、「花」といえば「梅」のこともあった。 シテが「花」を秘めてはじめて、能舞台に「松竹梅」が揃い、めでたしめでたし、と能的世界が円満に完結する? ならば、能を観ることを、「探梅」とでも言ってみようか(なんて・・・気取っちゃって・・・) *** 金剛能楽堂正面にましましたお人形 草臥れたので、俵屋は後日・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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