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上生的幻想

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2009/03/28
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 カタク。昨年腰の手術をして以来、シテとして復帰第一番となるので、観にいくことにした。
 実は、もともとは別のシテさんだったがその人が体調が悪くて、カタクと交代。4月の片山定期能の『小塩』でシテ復帰第一番だったのが、一ヶ月早まったことになる。
 
 前シテの住吉明神が変化した老人、美しい老人だった。鬘桶に座っている姿はさほどではなかったが、大板屋から出て立ったときのその立ち姿。そのあとのちょっとした舞など、やわらかく、どこかみずみずしささえ感じられる、美しい老人だった。こんな美しい老人はいないだろう、と思われるところが、普通の老人ではなく、神の化身かと。
 八坂で観た『翁』の翁とも全然違う。翁は、世界を統べる神なのだから、老人に身をやつしている住吉明神とは当然違っている。
 でも、この住吉明神。能に結構登場するけど、なんか、ピンとこない感じのが多い。演じるシテさんの方はそれなりに解釈して工夫もしているのだろうけど、観るこちらからするとなんかつかみ所がない感じ。翁ほど神々しくてもよくないし、かといって、全然神々しくないのでは神様らしくないし・・・というので、なんか、中途半端な感じ。その中途半端なところをどう演ずるか、なのかもしれないが、観ているこちらはいつも不完全燃焼な感じになる。
 神様もの、どうも、すっきりしないところもある。『雨月』は四番目だけど、ワキ能もどうも苦手、というか、観た後すっきりしない。もともと、一番目から順に演じられていたことを考えると、ワキ能の神様ものは、これから能を観るぞ!のウォーミングアップにはもってこい、とは思う。が、それ以上ではないような。二番目の修羅ものは、武士なら一気に入り込めるだろう。そして、能の醍醐味、抽象的・象徴的内面世界の三番目。ここがピーク。小難しい三番目ものの後は、ちょっとばかり三番目ものの余韻を残しつつ、やや派手な動きのある狂いもの。そして、〆はど派手に動き回るアクションの五番目でもやもやを一気に解消・・・とすると、この順序はとてもよくできている。
 
 
 老人、というのもなかなか、難しい役なのかもしれない。中堅までのシテがやると、どうも、わざとらしかったり、逆に、老人っぽくなかったりしたり。『花伝書』だったかで、世阿弥は老人をどうやるか、というので、心を真似よ、みたいなことを言っていたような。老人というのは気持ちは若いときと変わらないが、いかんせん、体がそれについてこない。そこを真似れば、老人になる、具体的にどうするのかといえば、たとえば、囃子や謡よりほんのすこし動作を遅らす、などというようなことを言っていたような気がする。体がついてこない心を真似る、これを読んだときとたも感心した憶えがある(僕はまだそこまで老人ではないが)(というか、世阿弥の父観阿弥の言ったことをまとめたのが『花伝書』だから、観阿弥の洞察が鋭いのだ。観阿弥という人は、舞をも物真似で舞果せてしまうほどだったというが、こういう洞察から、ただの物真似師ではないということも分かる)。
 カタクの今日の老人がそういう老人だったかどうかはよく分からない。ま、それに、世阿弥の言うとおりである必要もないわけだし。
 不思議な老人だった。何せ、美しいんだから。そして、ふっくらやわらかく(あるいは、しなやかで)、みずみずしい。なんか、全部、普通に考える「老人」、「老い」のカテゴリーに反するような。でも、若者ではない。確かに、老人。カタクご自身もご老体。というか、役の中でのあの老人は確かに老人でしかなかった。
 
 九郎右衛門師のシテで僕が魅了されるのは、まさにこういうところ。なんか、常識的な世界、あるいはこの世では存在しないような、そんな存在。いやいや、鬼を普通にやるシテさんならいっぱいいるだろうけど、、、でも、その鬼はいわゆる鬼っぽい鬼だろう。カタクの鬼は観たことないけどたぶん、なんか相反するものを持ったような鬼、この世のものならざる鬼になるんじゃないだろうか?(って、鬼もってもともとこの世のものならざる存在だけど、今世の中に流布している鬼って鬼としては「陳腐」なものが多くないか? )
 見たものを思い出すと、まず、初めて見た『蝉丸』の蝉丸。盲目で親の帝に見捨てられ、身は乞食となった琵琶の名手だが、カタクの蝉丸からは、花吹雪が舞う高貴なあたたかい風のような気が絶えず吹き出してきているように感じられた。ほんと「花」とはこういうことか、と思った。
 翁。優美で、神々しい光を発する神。武で民を服従させるのではなく、徳と恵みで治める、そんな神。
 『西行桜』の老桜の精。これは、老桜の精の姿を借りた、カタクの芸に対する執念の化身のそのもののように思えた。何十年も歩み続けてきた芸の道やカタク自身の生き様を見せられたようで、ちょっと遺言のような感じがして、泣いてしまった。
 『求塚』の菟名日少女(うないおとめ)。地獄の責め苦にあって憔悴しきっていても、失われない優美さ。強靱な鋼のような優美さ。言いたいのは、「優美さ」という言葉に「鋼のような」と形容したくなる、そんな優美さをカタクの菟名日少女は持っていた、ということ。普通、「優美さ」というイメージに、「鋼」はくっつきにくい(つまり、本質的に詩的なシテともいえる)。また、優美さというようなものが人が生きる上での核になりうる、という発見。これも、「優美さ」といえばなんとなく、人の本質というよりはどこか装飾的な、付け足しのような要素、という感じがするけど、そうじゃなく、充分人の本質足り得る、ということ。
 そして今回の、老人。今回の曲は、内容的にはあまり深いものではないので、さらっとという感じたけど、そこにあらわれた、やわらかく、みずみずしい、そして何よりも、美しい老人。若々しい老人、ではなく、美しい老翁。若々しい老人、というのでは陳腐。それに、若々しい、というのは老いを否定している、あるいは、逆らっている。美しい老翁、は、老いを肯定し、受け入れている。「若々しい」ばやりの今時のご時世で、美しい老人というのは、人が老いていく上で、別の価値観、別の生き方を示している。
 
 とにかく、僕にとってこういうシテは、しみじみ、カタクだけ。
 これからも、末永く、ご無理をなさらず、すばらしい舞台を見せてください・・・と、なにかファンレターのような、終わり方。。。
(というか、ほんとはもっと言葉を尽くして書きたいし、もっと明確に鮮明にも書けるけど、照れくさいw)
 
 
 
 笛の光田洋一師。実は、しらめの時とか、大丈夫かな? と今日も思った。なんか、頼りない。今日も、というのは、一月の片山定期能の『恋重荷』。
 でも、やっぱり、終わってみるとよかった。シテが老人役だから、笛も、年輩がいい。光田さんの笛の音は、枯れてしまわず、艶々としたところがある。勢いに任せて吹き抜いてしまう若い笛方ではこういう役所の笛は、無理っぽそう。
 『恋重荷』の時と、囃子は、太鼓が違っている。今回は、息子さんの前川光範師。
 謡、地頭慶次郎師 以下、中堅、若手に少し入れ替え。
 囃子、謡のメンバーをみると、ああ、なるほど、この入れ替えが曲の雰囲気にこういう風にでたのか、と頷ける感じ。
 ワキの西行は、福王和幸師。重々しい西行。
 アイは、京都では珍しい、というか、僕は初めて見る和泉流の泉慎也師。装束が結構明るめ。京都の大蔵流は渋めが多い気がする。細かい抑揚や間が、大蔵流とは微妙に異なっていた感じ。
 
 
 シテの面は、前・後とも小牛尉 室町時代のもので作者不明。
 ツレは、媼 江戸時代・作者不明。
 と、今回から、アナウンスもはいり、また、面の柱に仕様面についての紹介もあった。
 今まで、面、観ているだけでどういうものなのかよく分からなかったので、とてもよかった。
 できれば、装束についても紹介があるといいのに。





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Last updated  2009/03/29 12:01:00 AM
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