田中一村と李商隠の牡丹
よしだかさん、初めまして、やまももです。 田中一村の牡丹の絵とそれに書き添えられた画賛について、よしだかさんのブログの「朝雲」と題された記事から貴重な情報を得ることができ、大変感謝しております。また、私のブログにわざわざコメントを寄せてくださり、この田中一村の牡丹の絵と画賛についての記事が「南海日日新聞」の10月5日に連載の第29回目のものとして載ったこと、その記事の筆者が一村記念美術館の顧問をしておられる大矢鞆音氏である等のことを教えてくださり、非常に恐縮するとともにまた大いに感激しております。 田中一村が扁額に描いた牡丹の絵には李商隠のつぎのような「牡丹」の詩を画賛に用いていますね。錦帷初捲衛夫人 繍被猶堆越鄂君垂手亂翻雕玉珮 折腰争舞鬱金裙 石家蝋燭做曾剪 荀令香爐可待熏 我是夢中傳彩筆 欲書花片寄朝雲錦幃初めて巻く衛夫人 繍被なお堆し越鄂君手を垂れ乱翻す雕玉の佩 腰を折り争そい舞う鬱金裙石家の蝋燭は做りて曾って剪り 荀令の香爐は薫るを待つ可けんや我はこれ夢中に採筆を傅え 花片に書して朝雲に寄せんと欲す なんとも難解な詩なので、インターネットでこの李商隠の「牡丹」の詩をちょっと調べてみました。そこで分かったことは、李商隠が様々な故事を用いて牡丹の花の素晴らしさを賞賛しているということです。 例えば、「石家蝋燭做曾剪 荀令香爐可待熏」という句では、晋代の石崇は薪の代わりに蝋燭を用いるほど家が裕福で、荀令という人物の家では香炉を用いずとも芳香が漂ったそうですが、そのような故事を用いて牡丹の富貴さや香りの芳しさを表現しているそうです。それから、「朝雲」は巫山の神女を指すようですね。 これらのこと、簡単に分かるわけがないですね。やたら典故を用いて飾り立てた漢詩ですから、いまの私たちの心に訴えるものはあまり無いと思うのですが、若かりし頃の田中一村はどのような気持ちでこの詩を牡丹の絵の画賛に用いたのでしょうかね。 なお、鹿児島市の山形屋で開かれた「田中一村展」で購入した『奄美を描いた画家 田中一村展』(日本放送出版協会、2004年1月)では、扁額に描かれた牡丹の花の絵を「扁額 花」として掲載しており、描かれた時期は「昭和三年」(1928年)としています。また、この絵はいまは田中一村記念美術館が所蔵しているとのことです。それから、山形屋で開かれた「田中一村展」につきましては、私のホームページに「田中一村展を見て」と題して紹介しております。