有限の時間というものは
こんばんは、ほうとうです。映画「聖の青春」を見てきました。将棋ファンとして、生前の村山聖の対局姿を生で見た者として、原作本をボロボロ涙をこぼしながら読んだ者として、この作品は是非見ておかなければ、と思ったのです。(実は、号泣しても良いようにタオルを持参しておりました。)村山聖を演じる松山ケンイチが約20キロ増量して役作りに努めたこと、ライバルで七冠王となった羽生善治を演じる東出昌大が、当時本人が使っていた眼鏡を譲り受けて、誰もが似ていると評価していることは、芸能マスコミでおなじみとなっていますが。似ている論議で言えば、筒井道隆が演じた将棋雑誌編集長(実は原作者大崎さん)も良く似ていました。が、それは些細なことであって、原作本が「明るい笑顔の裏に秘められた苦悩と絶望」(高橋道雄九段、本映画プログラム)を基本とし、彼の一生を描いているのに対し、この映画は「二人の友愛を強く打ち出し」(評論家森直人、本映画プログラム)、最期の4年間を中心に描いていることから、この映画には原作と比べて、純粋さ、清々しさ、若いゆえの輝きが強く感じられました。村山が、29年という生涯の与えられた時間を自覚し、がむしゃらに一直線に突き進んで行ったこと、彼の生涯を2時間余で描かねばならない脚本家と監督、限られた時間というのは、厳しい試練となって立ちはだかるものだと、つくづく感じたのでした。