カテゴリ:私のこと
はんらの父親はサラリーマンだった。 母親は、小さな店をしていた。 店の名前は、○○商店。 (○○には、はんらの苗字が入る。 韓国人には発音できない店名である。^^;) はんら母は、やはり、商売する家の出身だった。 母親は、店の看板娘で、はんら父ははんら母の姿を店で見かけて、ずっと憧れていたそうだ。(^^;) はんら母は、商売屋がいやで、サラリーマンに憧れ、はんら父と結婚したらしい。 ところが、月に1回だけお金を持ち帰るサラリーマン生活が、思っていたより大変だったため、はんらが幼稚園児だった時に、母親は店を始めた。 最初は、おもちゃ屋だった。 が、おもちゃは、クリスマスなどはいいが、毎日売れるものでもなかったため(田舎だから)、もっと手ごろな文房具屋に転向した。 はんら家から歩いて5分のところに、中学校があったのだ。 しかし、万引きがあまりにも多く、文房具屋もやめて、雑貨屋になった。 雑貨屋で落ち着いて、長い間、同じ場所で店をしていた。 ○○商店は、結構よく儲かっていたらしい。 母親が働き者だったし、社交的だった。 どんなに遠いところにも、洗剤一箱でも配達するほど、マメに働いていたからだと思う。 定休日もなかった。 店員も置かずに、ひとりでやっていたため、収入もまあまあだったのだろうと思う。 その代わり、はんらたち3姉妹は、よくこき使われた。 配達や店番、商品の陳列、ご飯準備など、毎日毎日、手伝わされた。 小学校高学年とか中学生くらいには、店番などはとっても恥ずかしく思えて、とてもイヤだった記憶がある。 店屋の子供でない子供達が、それはそれは羨ましかったものだ。 良かったことは、○○商店には、雑誌も置いていたこと。 少女コミック、マーガレット、花とゆめ、りぼん、なかよし、ちゃお、フレンド、少年ジャンプ、サンデー、チャンピオン、マガジン、あと、何があったっけ?!? とにかく、全部置いてあったため、全部、タダ読みできた。 ただし、小さな店なので、売れる量しか入荷しない。 売れてしまうまでに読まなければ読めないので、必死で、ものすごい集中力で速読していた。 はんらの読解力が優れていて、学生時代ずっと優等生だったのは、あのマンガを大量に読破していたからだと思える。 お中元、お歳暮の季節は、母親が洗剤などをひたすら包装し、父親と母親が配達し、はんらたちが店番したりしていた。 はんらが小4くらいのとき?あの、オイルショックがあった。 (歳がバレバレ。) みんな、血相を変えて、○○商店にトイレットペーパーを買いに来た。 どんなボロボロになったペーパーでも、何でもいいからと、拝まれて売っていた。 倉庫はカラッポ。 問屋からペーパーが来る日には、○○商店の前には、長ーーーい行列が出来ていた。 あの時のはんらは、幼かったので、何が何だかわかっていなかったが、今になって、あの時のことを思い出すと、笑える。^^ 今でも、家族で集まると、あの時は面白かったねぇ、なんて話になる。^^ はんらたち姉妹が成人した頃から、大型マートの時代になり、○○商店も、景気が悪くなってきた。 はんら母は 「ちょうどいい時代に商売できたわ。」 と、言っている。 今、小売店をやっていても、あまり儲からないのではないだろうか。 ○○商店は、10年位前に閉店した。 そのとき、売れ残った、浮き輪とか、絵の具とか、いろんなものをたくさん韓国に持ってきたが、今でもはんら家で使っている。 海で活躍したよしくんの浮き輪も、○○商店の10年前の売れ残り。 よしくんが沈んでしまわないか、ちょっと心配だったのだけど、見事、使命を果たしていた。 コーちゃんの浮き輪は5千ウォンの貸し浮き輪。 よしくんのほうが、○○商店で10年前に売れ残った商品である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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