地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

全108件 (108件中 11-20件目)

< 1 2 3 4 5 6 7 ... 11 >

マルチチュード

2007.07.26
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カテゴリ:マルチチュード
<8>よりつづく


「サイバージャーナリズム論」<9>

 
佐々木俊尚の持分は、p75~113pの約40ページ。この本においても、私の彼に対するイメージは大きく変わるものではない。あえて言えば、自らを「ITジャーナリスト」という立場においていれば、あとは売文家業に精を出している、という感じ。この人においては、いろいろ評論はするが、自らの主体についての変革はあまりテーマとはならない。

 TBSのほとんどの番組を制作しているのは外部の番組制作会社えある。さらにいえば、テレビ局は営業もほとんど電通・博報堂に負っており、自社で汗を流して努力しているものはほとんど何もない。では、どうしてあれほどの高給(たとえばフジテレビ社員の平均年収が1500万に達している)を社員に与え、そして安穏としていられるのかといえば、総務省から付与された電波免許という既得権益をがっちりと握っているからである。地上波テレビというのはチャンネル数が少なく、これがボトルネックとなっている。このため番組制作会社は局プロデューサーに頭を下げなければ仕事を干されてしまう。圧倒的に局が優位に立っているのだ。 p81

 ここの部分
「ご臨終メディア」と同じく、テレビ局の病巣、「高給」に触れているのは興味深い。

つづく






Last updated  2009.02.16 21:04:59
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カテゴリ:マルチチュード


「ご臨終メディア」  質問しないマスコミと一人で考えない日本人
森達也 /森巣博 2005/10 集英社 新書 222p
★☆☆☆☆


 以前森達也の本は読んだことがある。正直ピンとこなかった。申し訳ないが、この一冊もあまり共感するところがなかった。あえていえば、日本のマスメディアをある角度から狙い撃ちしているんだな、ということはわかったが、それ以上のことについては、共感しない。

森 ならばなぜ、日本のメディ従事者は志を保てないのでしょう。
森巣 まず給料が高すぎる(笑)。連中の給料を三分の一にせよ、という説を私は持っている。
森 フジテレビに同年輩の知人がいて、三年くらい前に会社を辞めて、ベンチャーで会社を立ち上げました。このあいだ、話をする機会があたので、「収入下がったんじゃないの」って聞いたら、「いやぁ、もう三分の一近くになっちゃって大変だよ生活が」と。それで、「今の収入は?」と聞いたら、「1000万だって」。残業とかいろいろついた金額だろうとは思うけれど、2000万円以上はもらっていたわけです。
森巣 はははは。
森 テレビ局社員の年収は、全上場企業の平均給与の2.5倍だったかな。商社や損保なども比べものにならない。業種としてはぶっちぎりです。確かに、あの収入は異常ですね。
森巣 3000万円近くももらっているなら、三分の一にしろという私の説では駄目だな。十分の一にせよ。
 松尾スズキの説によると、「2ちゃんねる」に憎悪の書き込みをする連中の年収は、300万未満だそうです。大手メディアの連中の収入を、このレベルまで下げなければならない。するとテレビが十分の一で、朝日・讀賣・日経が六分の一。毎日と産経は、そもそも給与ベースが低いから、四分の一といったところですかね。そうなりゃ、権力との癒着と腐敗は連中にとっても切実な問題となるわけですから、やっと知っていることを書き出しますね。 
p24

 このブログでは、麻原集団事件については、一通り目を通してみた。ながいこと面倒だなぁ、と思っていたことだが、いちおう、このブログを機会に、ひと糞切り(!)ができた感じがしている(この件については、あとで読書リストを作成する予定)。

 対談の相手は、本業は博徒、副業で文章を書いているp215森巣博。森達也の作品はYoutubeでいくつか見ることができるようだが、私は自分のブログにリンクをはるだけの魅力は感じない。







Last updated  2009.02.08 13:33:20
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カテゴリ:マルチチュード
<7>よりつづく

「サイバージャーナリズム論」<8>

 
スポンタ中村がすでに「オーマイニュース」を取り上げていたことに、別段、気にも留めないで読みすごしていた。

 日本にも市民記者という名称が誕生した。しかし、市民記者がジャーナリストかというと、それは違う。韓国で生まれた「オーマイニュース」や、日本のインターネット市民新聞も、主宰者はプロのジャーナリストだ。彼らは既存のジャーナリズムの延長線上にいる。市民記者とは「あなたも記者になれる」とおだてられ、ネットで身辺の情報を送稿している作文好きの大衆のことだ。p211

 
鳥越俊太郎を思い出して、あらためて「オーマイニュース」というものの存在価値を知った。ここでのスポンタ中村の言葉にカチンとくる向きもあるだろうが、私も「あなたも記者になれる」という言葉は嫌いだ。「あなたも画家になれる」という通信販売教育セットのコピーに、さも似ている。中村との対談の中で、森健もオーマイニュースに触れている。

 森 (前略)オーマイニュースのレポーターはウェブの積極的な参加者ではあるが、主体的にテーマを選び、目的を持って取材に当たっているわけではない。身辺雑記が中心であり、ジャーナリストではない。 p237

 
オーマイニュースは、「韓国・盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領を生んだインターネット新聞として一躍世界的に有名になった」ということだが、それならそれで、私なりにイメージが湧いてくるものがある。盧武鉉に関する本「私は韓国を変える」「韓国現代史」翻訳者夫婦と私は、実はある時期非常に親密な関係があった。彼らのこの40年近くのライフストーリーのアウトラインはすぐ側で見ていたことになる。この夫婦たちが「オーマイニュース」とどのような関係にあるのか知らないが、もし関係があるとして、彼が数冊の時事問題の翻訳書を持っているから、彼らはれっきとしたジャーナリストだ、という向きがあるとすれば、私はそれを否定したい。あるいは市民記者などという表現も全く当たらない。あえていうなら、彼らは「革命家」たちだ。しかも、筋金入りだ。ジャーナリズムなどという生ぬるい表現は、ここに来て、ちゃんちゃらおかしい。

 さて、そろそろ、歌川版「サイバージャーナリズム論」の他の執筆者たちに目を移していこう
佐々木俊尚を除けば、このブログは湯川鶴章にも縁があった。著者「ブログ・ジャーナリズム 」「ブログがジャーナリズムを変える」 を読んで、このブログの「ブログ・ジャーナリズム」というカテゴリを作ったのだった。思い出しついでに、ダン・ギルモアの「ブログ 世界を変える個人メディア」 も読んでいたことを、ここにメモしておこう。

 湯川鶴章の持分は45p~74pまでの30ページ。はっきり言うなら、ここに展開される湯川の世界はごもっともと納得するところが多いが、どうもまだ私の世界とはカブらない。「『プロの記事』はブログより価値があるか? --9.11の草の根ジャーナリズム--」というごもっともなタイトルであるし、展開されている世界もごもっともだ。しかし、それは「プロ」の「ジャーナリスト」がもともとやるべきことだ。プロがサボって、それを「アマチュア」にやってもらおう、という魂胆は嫌いだ。

 しかしたとえブログが影響力を増しているとしても、調査報道はプロにしかできない。そう考える報道関係者は多い。「パジャマのままでパソコンの前に座っているだけの人間に、ジャーナリズムが実践できるわけがない」。米テレビネットワーク大手のCBS放送のある幹部がある会合で、ブロガーをこう揶揄したといわれる。p55

 私はここに過剰に反応した。さっそくプロフィール欄に「パジャマのままパソコンの前に座るブログ・ジャーナリスト 」の一行を加えた(笑)。もっとも、私は寝る時でさえ、パジャマは着ない。実態としては「パジャマのままパソコンの前に座る」ことはない。この辺は、そのうち、もっとうまい表現を見つけて、訂正しなくてはならない。その業界で食を食む職業人がやることと、アマチュアでやることには、おのずと比較対照にならないことが多い。プロはプロでがんばるしかない。しかしアマはアマにしかできないことがある
「取材なくして発言権なし」意味はわかる。

 湯川のジャーナリズム論は正論だ。とくに反論しようがない。ただ、
最初っから感じていたが、この人の世界は薄暗い。もっとぱっと楽しい雰囲気づくりができないものだろうか。被害者が重い口をようやく開いたような、じめじめした粘着感がある。呵呵大笑するような、豪快な生き方を期待したいのだが。

 それと、すこしづつ明確になってきたことだが、私はこのブログでなにをやりたいのか、といえば、あえていうなら、内面の世界のジャーナリズムだ。現在、あちこち文献に目を通しているのは、内面の世界についてどれほどの資料や情報が流布しているのか、ということの確認だ。ニューヨークにいったり、北極にいったりして、取材することはできない。時間も経費も追いつかない。しかし、内面の世界なら、それほど金もかからん、時間も外側の世界に縛られることは少ない。「取材なくして発言権なし」。私は私なりにせいぜい「取材」をつづけようと思っている。 

つづく






Last updated  2009.02.16 21:03:32
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カテゴリ:マルチチュード

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく

「報道は欠陥商品と疑え」
That’s Japan
鳥越俊太郎 2002/10 ウェイツ 単行本 104p
★★★★☆

 
「人間力の磨き方」06/06に先立つこと4年。まだ、ブログという言葉もでてこない時代の述懐である。

 たとえば、あなたが犯罪の容疑者、被害者のいずれかに立たされTVカメラや記者に始終付きまとわれたとしよう。警察情報はひとり歩きして、あなたと違う「人間像」がつくられる・・・・誰にでも起こりうる恐ろしい現実。そんなとき、あなたは何を支えに生き、誰に向かって真実を主張するだろう?
情報の真贋を見極めることは、報道に携わる人間の資質でありモラルでもある。誤ったら公に反省すればいい。しかし、現在は報道も消費の対象であり「娯楽」でもある。
長い記者生活のなかで、鳥越は「真実」を追い続けてきた。失敗もあった。そこで、彼は何を学び、どう伝えてきたのか? 「ニュースの職人」を自認する
鳥越の発言は、警鐘に満ちている。
 表紙コメントより

 この人はまさにマスメディアで生きてきた人間だろう。しかしながら、彼はジャーナリストを自称しない。「ニュースの職人」だ。あるいみ新聞記者になりきれず、週刊誌の編集長に転じてその存在に輝きがでてきた。今朝知ったことだが、彼は現在(もかな?)
「オーマイニュース」の編集長だということである。「市民みんなが記者だ」のキャッチフレーズには、意見はあるが。ウィキペディアによると、次のような記事があった。

 「2006年5月 - 日本版オーマイニュースの初代編集長に就任。
2ちゃんねるをはじめとするネット上の匿名投稿による弊害を批判していた鳥越はオーマイニュースの実名投稿主義に共感し編集長を引き受けるも、2ちゃんねらーをはじめとするBBS利用者や個人ブロガー達のみならずオーマイニュースの非常勤編集委員からまでも立ち位置の偏りやネットリテラシーの低さを巡って激しい批判を浴びる事となった。また、2ちゃんねるを「ゴミため」呼ばわりした自身の発言が大きな批判を招いた事に関して鳥越は「彼らが反発してくるのは想定内で、僕の挑発に乗ったな、という感じだ」と公言している。(2006年12月17日付朝日新聞朝刊37面より)」


 週刊誌で思い出したけど、60年代のミッチーブームで台頭してきた女性週刊誌を舞台に「トップ屋」を自認したのは故・竹中労だった。ルポ・ライターとも言われた。彼の父親はもともとアナキストで、生まれた当初の名前は「乱」だったという。その後、ボルシェビキに転向したため「労」と改められたとか。竹中労務店、などと揶揄されたこともある。

 20前後の時に、彼と酒を飲んだことがある。最近地震で大騒ぎになっている地方で講演会があった時のこと。企画に携わっていたので、かなり長時間彼と長いこといた。やってくる彼を新幹線の数駅先まで迎えにいき、車内で面白い話をたくさんきいたこと。その後、街道沿いで「猪なべ」をごちそうになったこと。講演会で「吟醸酒」を飲んだこと。そのあと、彼と私はなぜか髪のつっかみ合いの大喧嘩になったこと。でもめちゃくちゃ酔っぱらたあと、ふと朝、目が覚めてみれば、竹中労と私は、ひとつの布団の中で、寝ていたこと。当時彼は40代前半か。こちらもまだ10代だったかも知れない。

 彼から教えられたことは、「取材なくして発言権なし」、そして、「表現の自由を求めるな、自由を表現せよ」ということ。

 報道に「真実」はあるのか? p35

 物理的「真実」たとえば、段ボール肉まんはあったのかどうか、という「真実」はつかむことができるだろうけど、段ボール肉まんをどこまでも追求したところで、人生の「真実」は見つかるはずはないと思う。だから究極的には「報道」には「真実」はない、というのが私の結論だ。

 最後は「人間力」の勝負となる p56

 さぁ、前著でも話題になった
人間力。人間力は、ジャーナリストの一要素なのか、ジャーナリスト的素養は人間力の一要素なのか。ここの絡みがこのブログでの大きなテーマのひとつだ。

 新しいメディアの形 p83

 この本がでた02年当時はまだブログは一般的ではなかった。「ほぼ日刊イトイ新聞」への自分の寄稿を話題にしている程度だ。でも、やはりジャーナリスティックな感覚はするどい。大メディアに身をおきながらフットワークは軽い。近年の彼はオーマイニュースに関わっていたということだ。そろそろ、この辺から、もうすこし、この私のブログもアップデイトな話題についていけるよう、体質を変えていかなくてはならないかもな、と思う次第。

 ---新しい技術が発達する段階では本当は職人はどんどん淘汰されていくはずでしょうが、現実には逆にそれが必要とされているということで、すごくおもしろい感じがします。
鳥越 あとは、どうやって次の世代の人たちに「ニュースの職人」としての技や心意気を伝えていくかということがありますね。それがこれからの自分の仕事だと思うから、塾をやるとか、学校をやるとか、人に教えるとか、そういうことは今後、精力的にやっていきたいと思っています。
 
p102 








Last updated  2009.04.11 15:57:23
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2007.07.25
カテゴリ:マルチチュード
<6>よりつづく

「サイバージャーナリズム論」<7>

 P229~p242は
スポンタ中村森健そして進行役として、最長老の歌川令三が加わって対談が続く。進行役の歌川の茶々入れがちょっとうるさく、必ずしも「進行役」になっていない。本当に「知的バトル」p229を求めるなら、進行役は不要だったのではないか。むしろ、この老ジャーナリストが、主テーマを分かりづらくしている。

---最大公約数の模索ですね。
 そうです。そもそもマスメディアという意味では、メディアが特権的に強大という意味ではなく、マスの人を想定し、情報の最大公約数を伝授するメディアのことです。そこに職業人として登場する人がジャーナリストです。
---マスメディアで仕事をしていない人は、ジャーナリストではない、ということですか?
 そう思います。
中村 既成のジャーナリストの定義はまさしくその通りでしょう。それが不満だからこそ、デントツが起こる。
 p233

 私などは、この部分ですでに、森という人に対して関心を失う。マスメディアで働いていさえすれば、ジャーナリストでござい、と言っているかのようだ。私は、この辺で限界。退却。

 ジャーナリストとは反骨、反権力であることを忘れたか。一冊でいいから、鎌田慧の
「反骨のジャーナリスト」でも読んでほしい。

中村(中略)ネット社会では、毎日が「知」の牽引者選びのプロセスであり、アルファブロガー同士も競争の中で切磋琢磨を続けることが大切です。理想のネット社会なんて10年も20年も先の話なのですから。p242

 スポンタ中村も、「10年も20年も先」だなんて逃げてはだめだ。10年も20年も経っても、「理想の社会」なんてこないのだ。「今」を生きなきゃだめだ。今出来ることを最大限生きる、これだけだ。少なくとも
「フューチャリスト宣言」なんて、お洒落な(かどうかは知らないが)言葉で未来・未来と逃げるのはやめよう。

つづく






Last updated  2009.02.16 20:59:19
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カテゴリ:マルチチュード
<5>よりつづく


「サイバージャーナリズム論」<6>

 スポンタ中村の対談者の森健は、具体例を挙げながら自説を展開している。その中で気になったところは数点。

1)NHKスペシャル「奇跡の詩人」について p221
2)自書「インターネットは『僕ら』を幸せにしたか」について p223
3)ライブドア「パブリックジャーナリスト」について p227
4)「公共性」「公益性」「真実性」「相当性」について 
p228

 1)「奇跡の詩人」については、当時店頭で散見された雑誌記事をちらちら読んだだけだから、そのほかの周辺情報についてはなにも知らない。もしこのニュースに関心あるとすれば、この番組の主人公の母親か周囲のヘルパーに、どうやらOSHOの関係者がいるらしい、というような周辺情報が流れたこと。このことについては、私も2,3聞いてはみたが、真偽については分からなかった。また、それだけ問題にもならなかった。むしろ、わずか10ページの持ちページの中で、この話題を持ってきた森健という人はどういう人なのか、ちょっと首をひねった。

 2)「インターネットは『僕ら』を幸せにしたか」という本の背表紙は、何度も見かけた。だけど、申し訳ないけど、このタイトルだけで、手にとってみる意欲を失った。いや、そう言わず今後どこかで目を通してみるつもりだが、あまり期待はしていない。だけど、期待しなかった本が、素晴らしい本だったこともあるので、今は即断しないでおく。

 3)「パブリックジャーナリスト」にしても「市民記者」にしても、登録商標とかになっているなら別だが、その名称そのものにこだわり続けるのはどうかな、と思う。やりたければ、自分がやればいいし、もし仮にライブドアの企てが失敗したのであれば、それはそれだけのことであって、変な形でこだわりすぎている感じがする。「責任論」だが、責任については、スポンタ中村もこのブログへの書き込みで
何事か書いている私もなにごとか書いた。

 マスコミが間違いを起こさない、なんて信じていないし、筆禍をおこされた被害者側にとっては、どうしようもない致命的なことになることもある。以前の
「ブログと著作権」というこのブログでの書き込みにある写真は、18歳の時のマスメディアに対する抗議の時の写真だ。はっきり言って、この当時から、マスメディアなんて、責任を取る気もなければ、個人のことなんか、何も考えていないんだなぁとつくづく思っている。

 なにもライブドアだけの「無責任」が問われるべきではない。「噂の真相」だけが問われる必要はない。ただ、私はなるべくネット上ではトラブりたくないので、自分の書いていることにそれなりに留意はしているのだが、まぁ、気になることがあったら、お許しあれ。指摘があれば、なるべく早期に訂正する予定。

 4)いろいろな能書きについて。職業として認めてもらっていないのに、職業倫理だけ押し付けられるのはどうかな。アマチュアリズムにはアマチュアリズムのよさがある。プロなみに縛ってどうする気だろう。

 てなことをつらつら感じていた。この人には「ネット王子とケータイ姫」という共著もある。この本も背表紙だけ見て読んでいなかった。1968年生まれということだから、まだ30代後半。ちょっと古いというか、逆行している感じがするなぁ。そのような「硬さ」が持ち味の人なのかな。

つづく






Last updated  2009.02.16 20:56:25
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カテゴリ:マルチチュード


「スピノザ エチカ抄」 <1> 大人の本棚 バルーフ・ド・スピノザ /佐藤一郎 2007/03 みすず書房 全集・双書 310p
おすすめ度★★★★☆

 マルチチュードやシンギュラリティという単語を使っていくなら、そのもともとの源泉とされる
スピノザの世界を探索する必要がある。西洋社会では無神論者という評価が下されたとしても、その「神」概念は、東洋的「空」や「無」につうじていると言われるスピノザ。

 この本、「抄」とあるだけに、小難しい重複する部分をカットしていたりするので、難解(と私は思う)なスピノザもすっきりとその素顔が浮き上がってくる感じがする。現代日本語訳なので読みやすい。下手な宗教用語や人名地名書名、あるいは他者の論理など、一切借りてきておらず、たんたんと静かな営みが続く。

 私はどうも、さも銀行の待ち時間に週刊誌をめくるような調子で本をめくっているので、現在、このような本を時間をかけて読めないような状態にある。でも、そのうちじっくりと読みたい
「スピノザ『無心論者』は宗教を肯定できるか」なども面白かったことを思い出した。

再読=<2>につづく







Last updated  2008.10.19 22:09:23
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2007.07.24
カテゴリ:マルチチュード
<4>よりつづく


「サイバージャーナリズム論」<5>

 p209~p218におけるスポンタ中村(以下敬称略)の持分の要点をつまみあげれば、次のようになるのだろうか。

1)ニューメディア時代の望ましいジャーナリスト像とは何なのか? p210
2)「市民記者」はジャーナリストとは”似て非なるもの”ものである。
p210
3)なぜ、既成のジャーナリストを凌駕する市民ジャーナリストが生まれないのか。p212
4)「P2P世界の知的門番」とは誰のことか?
p214

 その他、多岐に渡ってテーマとすべきことはあるのだが、まずは取っ掛かりとして、この辺を自分なりに咀嚼してみれば・・・。

1)ニューメディア時代の望ましいジャーナリスト像とは何なのか? p210
 
 どんな時代であろうと、本当に求められているのは一部の職業カテゴリではなくて、人間のあり方そのものだろう、と思う。ジャーナリストを求めるとすれば、ジャーナリストという土俵の上で語らずを得ず、人間そのものにたどり着くまで時間がかかりすぎるのではないだろうか。ジャーナリストという職業に信頼や尊敬の念を持たないではないが、勝手なことを言わせてもらえば、今後、ジャーナリストの世界がどのような展開に巻き込まれていくのか、などについては、私自身はあまり関心がない。

2)「市民記者」はジャーナリストとは”似て非なるもの”ものである。p210

 この概念はどのような経過でこのような名前を獲得したか知らないが、少なくとも、ライブドアが「パブリックジャーナリスト」というキャンペーンを張った時には、私自身もググッと来た。都合がつけば参加したかも知れないが、いろいろ疑問も残っていた。たとえば、自分が書いた記事を採用されたらいくらかの報酬になり、採用されなければ「ボツ」になる。じゃぁ、その時の私の「意見」はどうなるのだろう、ということ。私の意見の管理権、編集権をLDに握られてしまう、ということになるのだろうか。それはいやだな。言いたいことを言えるのがネットのいいところなのに、私と私の「意見」の間に、誰か他の存在を入れたくない、そんな感じがした。

 スポンタ中村自身が「あの半年間の無駄な体験」と総括しているのだから、それ以上、私には言うことはない。私は「無駄な体験」をしなくてよかった、というべきか。なんであれ、LDの軸足がぐらぐら揺れていたことは確かなので、キレイ事はともかくとして、その中で自分がどれだけ楽しめるのかは、未知数だった。まぁ期待薄だったということか。体験しなかった私だが、本当は、その「無駄」を体験してみてもよかったかな、と今では思っている。貴重な体験をした当のご本人には、これからも機会をとらえて、そこでなにがあったのかを話していただけるなら幸いだ。

3)なぜ、既成のジャーナリストを凌駕する市民ジャーナリストが生まれないのか。p212

 これはどのジャンルでもいえることではないだろうか。相撲の横綱をこえる新しい相撲取りを待ち望んでも、なかなか登場はしてくれない。キックボクシングのチャンピオンを超える新しいキックボクサーはなかなかでない。そこで、たとえば、K-1というあたらしいスポーツをつくり、相撲取り、キックボクサー、レスラー、空手家、柔道家を戦わせて、手っ取り早く新しいK-1チャンピオンを作ったほうがいいのではないか。

 ひょっとすると、ジャーナリスト、という概念は、もう古いのではないか。ジャーナリストを超えるのは、市民ジャーナリストにではなく、まだまだいい加減の概念ではあるが、このブログでいうところの「マルチチュード」にでも、その夢を託したほうが早いのではないだろうか。

4)「P2P世界の知的門番」とは誰のことか?p214

 さあ、きたぞ。P2P。私は技術に詳しくないので、ついついイメージで語ってしまうところがあるが、カテドラルとバザールでは、当然バザール派なのであった。P2Pという言葉を聴くと、ちょっと興奮する。聞くところによれば、スカイプなどもP2Pの範疇に入るらしい。Winnyに関するウィルスが起こした悪戯だけがクローズアップされてP2Pの功績はなかなか評価されないが、むしろP2Pの功績を目立たないようにするためにWinnyがスケープゴートにされているのかな、とさえ勘ぐったりしてしまった。

 バザール派ということであるなら、当然、そこにはリチャード・ストールマンリナックス、フリーソフトウェア、オープンソースなどへの言及が当然のごとく起こってこようが、技術者ではない単にミーハー・バザール派の私には、実は本当のことはよくわからない。私の周辺ではいわゆるIT産業で食べている技術者たちも多いのだが、結構彼らはカテドラル派が多い。多いというより、ほとんどそうだ。私みたいな、外部のミーハーがワイワイと言っても、現実的にその仕事で食を食んでいる人々は、秩序ただしく「私語禁止」のルールを守っていることが多いようだ。

 私の想定する「P2P」は、バザールよりももっと進化した情報システムだ。p215

 P2Pとは、Person to Person、個人から個人へ、という意味だととらえる。そういった意味で言えば、たしかにインターネットは、ところどころに適当な大きさのハブが存在して、そのハブに等間隔で各個人がぶら下がった形になっている。この図式をどこまで細分化するかはともかくとして、どこかでだれかが管理するすることになってしまう。LAN構造があるかぎり、社内、家庭内ですら、厳密にはP2Pではない、ということになるだろう。

 P2Pは中央サーバーを持たない、より進化した「多」対「多」の情報交流システムだ。p216

 さぁ、ここでいうところの「多」とはいくつくらいの数字を示唆しているのだろうか。地球人の全人口60億を想定しているだろうか。あるいは日本人1億3000万人かな。私は、それはマスメディア時代の悪しき皮算用のように思う。

 人間生きていて、付き合っていける人間の数はそう多くない。たとえば、私が書いた記事が60億人に届くとして、60億人から帰ってくる60億通のレスには目を通せない。それは無理だ。だから、私の記事はそんなに多くの人に届く必要はない。

 一つの目安としてだが、人々は年賀状をどのくらい出すだろうか。一般的に考えて、少ない人で10~30通程度、多い人で400~500通程度か。最近の若い層はメール年賀で済ましてしまうだろうし、年に一度のDMがわりに年賀状に力を入れるひともいるだろうが、日常的に付き合っていける人はそう多くない。

 たとえば、ケータイに個人アドレスや電話番号を記憶させているのだが、一般的な社会人であろう私は、その記録が1000名に達したことはない。ファックスや固定やケータイを複数登録するので、500は足らないが、1000までは必要ないのではないかな。

 その他の件から考えても、私は「多」とはせいぜい200程度あれば、十分役に立つのではないか、と思っている。200対200で十分なのではないか。これだって、それぞれに支線を張ったら相当のネットワークのコングリマリットになる。

 私のRSSリーダーは100ブログまでしか登録できないが、面白いブログを見つけて100登録しても、私は全部目を通すことはできない。現在は40とちょっとだ。例のパレートの法則から考えてみると、200名のうちアクティブな関係がその20%で続いていれば、まずは80%の自由な言論ができている、と想定することもできるのではないだろうか。

 ネットワークは双方向性だ、などといわれることがある。しかし、考えてみればネットやウェッブは、くもの巣をイメージしている限り、平面にとどまる。それは、日本列島とか、せいぜいアジアという範囲程度なら、くもの巣にたとえることもできるだろうが、いまやインターネットは地球全体を覆っている。平面ではなく3Dであり、球体だ。しかも、球体というより、どの地点からもどの地点への等間隔距離でイメージされることが多くなってきているのではないだろうか。そろそろネットワークという言葉は実態にはあわなくなってきた。

 私は語呂合わせで、新しい概念をファイアワーキングとでも名付けたらどうだろか、と思う。ファイアワークとは花火のこと。打ち上げ花火は、裸の大将の貼り絵のように円で表わせられるけど、本当は球体だ。しかも二次的、三次的に小さな球体をいくつもつくる。

 そしてもうひとつ大事なことは、ネットワークの双方向性がよく語られたけど、それは、巨大マスコミと読者とか、数局しかないテレビ局と視聴者という、一方的な情報のあり方が常識化していた時代にこそ双方向性が語られたのだろうと思う。だが、これだけ総表現が可能になった時代では、むしろ、双方向性を強調する必要性は薄らいできているのではないだろうか。

 考えてみれば、P2Pといっても、PからPへいくには何次かの隔たりがある。あっても届けばいいのだが、その返信は、かならずしも、その何次かの隔たりをまったく正確に逆流してくるわけではない。新たな道筋を作って、戻ってくるのだから、それは返信と考える必要はないのでないだろうか。それはあらたな発信だ。

 ネットワークといっても、それが固定化してしまえば、いわゆる組織の変種でしかなくなる。ところがファイヤーワーキングでは、一発打ち上げ花火方式で、形もろともその時だけで、形が残らないのもいいのではないか。

 結論として「P2P世界の知的門番」というのは、私にはよくわからない。むしろ、意識をおなじくする200くらいの<マルチチュード>が常時流動的に認知しあえるシステム、それがあれば、「知的門番」は不要なのではないかな、と思う。

つづく






Last updated  2009.02.16 20:48:49
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カテゴリ:マルチチュード


「日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか」 
星川淳 2007/03 幻冬舎 新書 214p
★★☆☆☆


 ググってみると、「日本はなぜ」とか「なぜ日本は」というタイトルの本がざっと20冊以上見つけることができる。「サルにもわかる」とか「いまさら聞けない」とか、一部出版社のシリーズものかな、と思ったが、これがまちまちで、必ずしも限定された出版人の企てではない。かなりの範囲でこのようなタイトルが横行しているようなのだ。

 日本はなぜ「日本はなぜ」ってタイトルがすきなのだろう。「日本」という括りが気になるのかな。自分はこうだ、と個別性を主張するより、まず、日本人としての自分とか、他の日本人は、という横並び的感覚がどうしても顔をだしてくるのかもしれない。それに「なぜ」という疑問詞。何が、とか、どのように、とか、いつ、などより、よりなぜ「なぜ」を探求する傾向があるのだろうか。なんだか良心的で小心な国民性が見えてくる。

 星川淳
「存在の詩」を出す前から注目してきたが、その抜群なコピーライティングには敬服するだけのものがある。その彼がいくらグリーンピース・ジャパンの代表になったからと言って、さて、こういうタイトルの本はどうなのかなぁ、と思う。先日のNHKテレビ「ブックレビュー」では、ベスト新書本の何番目かにリストアップされていたから、売れているのかもしれない。多分4~50冊以上あるだろう彼の著書・訳書の中では、一番売れた本となるかもしれない。めでたし、めでたし(なのかな・・)。

 彼の一連の文筆活動は、このブログの前に他のSNSにざっと読書記録を残したので、そのうち、こちらのブログに転記してみようかな。ただ、その一連のなかにあっても、この本は、ちょっと毛色の違った一冊ということになるだろう。

 ネット上における書評によれば、この本、必ずしも評判は芳しくない。星川うんぬんというより、グリーンピースが過去30年の歴史の中で日本人に植えつけたイメージは相当に濃い。一朝一夕にそのイメージが変わることはあるまい。
 
 
グリーンピース・ジャパン代表というポジションを引き受けた星川にはどんな心境の変化があっただろう。火中の栗を拾ってしまたことになるのか、貴貨おくべし、として彼のきわめて先鋭的なジャーナリステックな感覚になにごとか来るものがあったのか。

 グリーンピース側にとってみれば、星川を「獲得」することによって、自らのイメージを変容させる準備を進めたのか。いずれにしても、歴代代表の中でも、ユニークな存在となることは間違いあるまい。







Last updated  2009.02.08 13:40:49
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2007.07.22
カテゴリ:マルチチュード
<3>よりつづく

「サイバージャーナリズム論」<4>

 さて、この本、歌川令三、湯川鶴章、佐々木俊尚、森健、スポンタ中村、それに加えて公文俊平の6人が名前を揃えているのだが、残念ながら、このブログで読んできたのは、
佐々木俊尚だけだ。他の人々の本も、存在は知っているものもあるが、まだ読んでいない。今後機会があれば、読んで行こうと思うが、タイトルからして少しずれてるぞ、と思われるものもある。

 佐々木俊尚は、例のニューヨーク・タイムスの社是になぞらえば、大衆より、0.2か0.3歩進んでいるかな、と思わないわけではない。だけど、けっこう「堅実」な視点であり、本人は気づいていないかも知れないが、十分に保守的だ。あえていうなら、梅田望夫が、ようやく大衆より0.5歩先行している、と言えるかも。それに比して、スポンタ中村は、1.0歩までいくかどうかはともかくとして、かなりの前衛的ポジションを確保している。ある意味暴論的な部分もなきにしもあらず。

 この本一冊を熟読するなら、本来は最初のページからやるべきだろうが、レスをもらったこともあるし、自分が一番共感する部分でもあるので、中村のところから、すこし読んでみたいと思う。6人による共同作業とは言え、中村が与えられたページは、280ページあまりある本書の中の10ページ足らず。あとは対談の15ページあまりのみ。この限られた紙数のなかで彼はいいたいことを十分いえたかどうかはわからない。だが、私個人としては、共感しうるとことが多々ある。

 この項は「第七章 誰もがジャーナリストになれる? --- ジャーナリズムの進化論的変革を語る---」p207である。この本、副タイトルは「『それから』のマスメディア」だった。つまりはマスメディアのことを心配している本なのである。主なる著者である歌川令三は、もと毎日新聞記者
「新聞がなくなる日」の著書がある。元新聞記者においては、後輩記者たちに警告の意味があるのかもしれないが、私個人は、新聞がなくなっても、基本的には困らない。もっとも新聞販売店のみなさんや、家計を助けている新聞配達少年達には、このような発言をぶつけるのは心苦しい。便宜上許されたい。しかし、昔はいた牛乳配達少年はいまやいなくなったのだから、新聞配達少年がいなくなるのは、意外と時間の問題かもしれない。

 我が家では、この数ヶ月新聞を実験的に停止している。困ることはほとんどない。あえて言えば、テレビ番組欄が読めない、地域の人の慶弔記事が読めない、さらに奥さんにしてみれば近くのスーパーの特売チラシが入ってこないこと、この辺が困る程度だ。すべて他の手段でなんとか補完しうることばかりだ。新聞がなくなる日には、私はある意味賛成だ。

 ニュースはネットで読めるし、大体において余計なニュースが多すぎる。紙面では広告がだいぶ多過ぎるではないか。それに新聞がなくなれば、月々の購読料が浮く。それに廃棄物としての新聞紙がなくなるので、住居スペース的にも負担が軽くなる。ゴミ出しの手間が省ける。はてさて、この本、どちらの方向を向いているのだろうか。

 論点その一「ジャーナリスト」とは”お偉方”の独占的称号ではない。p209
 
 「ジャーナリスト、ってなんだね?」中学校一年の時の、母親の反応だった。現在85歳の彼女には、もちろん現在だってわからないだろう。新聞記者っていうならすこしはわかるかもしれないが、新聞記者っていったって、ちょっと前までは、半端モンのやることで、まともな職業とさえ見られない時代が長く続いたはずだ。いまさら、えらぶる必要もないと思うが。

 同じような構造で、現在たとえば公務員なんてちょっと威張っているし、就職先としては多少は難関と言われているが、ついこの間まで、民間に就職できない奴が救済的に拾ってもらうところだった時代もある。戦後なんて、破産した国家のお勤め人なんて、まともな人間のなるものではなかった。まぁ、皮肉はともかく、職業の外的評価などは時代時代で変わるもの。偉いかどうかは、まぁ、まずはあまり関係なさそうだ。

 
たとえブログが影響力を増しているとしても、調査報道はプロにしかできない。そう考える報道関係者は多い。「パジャマのままでパソコンの前に座っているだけの人間に、ジャーナリズムが実践できるわけがない」。 米テレビネットワーク大手のCBS放送の幹部がある会合で、ブロガーをこう揶揄したといわれる。
 その「パジャマのまま」のブロガー(ブログの書き手)たちが、プロのジャーナリストに挑み始めている。
p56

 戦地にカメラとともに命を投げ出す
フォトジャーナリストもいれば、弱小雑誌を命を張って守るブラック・ジャーナリズムぎりぎりの人生もある。せっかく大手の通信社に採用されても経歴ゆえ冷遇されるジャーナリストもいる。それらに対峙して、パジャマのままパソコンの前に座るジャーナリストがいても、私はおかしいとは思わない。

 まだ見ぬ真の「ジャーナリズム」 p209

 ネット社会の急成長に危機感を覚えるマスメディアの住人達はともかくとして、ジャーナリスト、ジャーナリズム、ってものに、心から自らの人生を投げ出している人はどのくらいいるのだろう。ジャーナリズムってのも、まだはっきりしないコンセプトだが、「真のジャーナリスト」っていうのはなんだろう。私にとっては、ジャーナリズムってのは必要条件かもしれないが、十分条件ではない。十分条件ではないかぎり、100%ジャーナリストになったとしても、それだけで「真」になることはない。ジャーナリズムの前に、まずは、「人間」が問われるべきではないのか。真のジャーナリストになることを目的にするのではなく、真の人間になることが先行するのではないのか。その過程においてなら、ジャーナリズムも完成するに違いない。

 各国それぞれ事情があろうが、
<段ボール肉まん>中国のTV局が「やらせ報道」と謝罪などというニュースには、どういう救いを求めればいいのか。犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる、というジャーナリズムの大道を行ったにすぎないではないか。時が時なら、この記者は編集局長賞でももらうかもしれない。段ボール肉まんも浅ましいが、やらせ報道も、なんとも浅ましい。

 どこにポイントがあるのか、ひとりひとりが人間として冷静に沈思黙考する必要が、まずあるのではないだろうか。

つづく






Last updated  2009.02.16 20:35:59
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