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2021.02.09
全108件 (108件中 1-10件目) チェロキー
カテゴリ:チェロキー
実際にその地を踏むことによってしか始まらないことがあるのであろうが、また、誰もが簡単にその地を訪れることができるわけでもない。本を読むという体験では遠く及ばないなにかが進行していることは察することができるが、また、本から十分受け取ることができるメッセージもある。 当ブログにおいて、「チェロキー」カテゴリは、このエントリーで108を迎えた。フィンドホーンで終わるとは思ってもいなかった。今後、このカテゴリはちょっと意匠を変えて「アンソロポロジー」というカテゴリに引き継ぐことにする。名前は変わるがニュアンスはそれほど代わらない。
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2008.01.24 23:33:51
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カテゴリ:チェロキー
フィンドホーンが唯一のものでも、絶対のものではないことは、創立者のひとりであり、アイリーンの夫でもあったピーターが後年この地を離れていることから考えても、わかる。アメリカからやってきたディビッド・シュパングラーの参加のしかたを見ても、そのことが分る。それにたしかにこのホーケンのレポートは、ちょっとロマンチックすぎるというのは本当だろう。
2008.01.23
カテゴリ:チェロキー
アイリン・キャディは1917年生まれということだから、もし現在もご健在なら卆寿をすでに越えられているということになる。この本が原文で出たのが1988年だからちょうど20年前。聞き取ったライザ・ホリングスヘッドの手になるものとは言え、微にいり細にいり、その長く特異な人生ストーリーを赤裸々に追っている。
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2008.01.24 08:57:22
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2008.01.20
テーマ:旅のあれこれ(9145)
カテゴリ:チェロキー
1995~6年にける事件に関する記事を「週刊プレイボーイ」に連載していた著者は、ある出来事をきっかけとして連載を中断した。それは、麻原の兄との対談だった。その兄もなくなり、麻原の刑も確定したところで、守秘義務はとりあえずなくなっただろうという判断のもとに明かされる「秘話」である。 本著は、事件だけにとどまらずに、著者自身の人生における旅におけるエピソードの数々を紹介している。それはおもにインド・ネパールやヒマラヤにおいてのことだ。著者はベビーブーマーや団塊の世代のすこし上の年代にあたる。立場としては、宮内勝典と同じく、すこし兄貴風を吹かせるところがある。いい感性をもっているのに説教臭くて、どこか簡単に事実誤認をする宮内はあまり好きにはなれない。だが、藤原に関しては、兄貴分ではあるが、旅の同輩としてこちらをみてくれるだけに、逆に、甘えを許されないような威厳を感じる。ある意味、怖い。 カトリックかニューエイジか、などという不毛の論争には無縁の人だが、どちらかいえば、ニューエイジの源流に位置する人物である。あるいは、比喩的な意味合いにおいてだが、伽藍とバザール、という対比を使えば、まさにバザールを象徴するようなお人柄であろう。いやもっとうまい表現があるはずだが、浮かばない。藤原新也には「藤原新也」という独立したカテゴリが必要だ。「インド放浪」以来、藤原ガンジスはとうとうと流れ続けている。
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2008.01.20 14:01:50
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2008.01.18
カテゴリ:チェロキー
会場は国際センターとして、コケラ落としのイベントであり、会議場も最新の同時通訳設備が自慢だった。二階の金魚鉢の中には、旧友のLオンのグループが後からみんなに絶賛されたほどの素晴らしい同時通訳を続けていた。会場にもガイジンが多くいた。観客には無線のヘッドホンが提供され、翻訳放送が容易に聞くことができるようになっていたのだ。 スタッフの私は、ガイジンを見つけると走りよって、この無線翻訳ヘッドホンを配り続けていた。会場の観客席にニコルを見つけたときも、私は彼のもとに駆け寄った。私がこのシステムを手渡そうとすると、彼は「大丈夫」と言って、受け取りを断った。その時、ああ、この人物は日本語が理解できるのだな、と思った。自慢の最新システムを断られたのはちょっと残念だったが、彼にしても「ガイジン」と見られたのは、ちょっと不快であっただろう。 この本は、実際に長期間、調査捕鯨船に乗って体験したことを、彼自身の言葉で書いている。小説とノンフィクションの間あたりの文体だろうか。小説とするにはあまりに事実に即しすぎているし、ノンフィクションというには、あまりに自己撞着しすぎていて、時系列もバラバラで、ちょっと読みにくい。あるいは、この辺は小説嫌いの私の偏見かも知れない。 ただ、クジラ捕りの立場からのレポートを他に読んだことがないので、そういう意味では貴重なレポートであるだろうし、彼もまた貴重な書き手であることは間違いない。彼には他に「勇魚(いさな)」というクジラをテーマとした小説があるらしい。確かに、日本人の中においても、捕鯨問題についての意見は必ずしも一枚板ではない。現在ではさまざまな意見が表明されている。その中で、積極的にクジラ捕りたちに身を摺り寄せる「ガイジン」は珍しいといえるだろう。いや日本人だって、こうはできない。 そんなクジラ捕りが自らの体験について重い口を開くときは、たいてい他愛もない話しがきっかけだ。彼らの話を聞くうちに、ぼくは相手の軽口にうまく歩調を合わせ、冗談や質問をはさむコツを学んだ。時々は、わざと話に割って入り、話し手がひと息つけるよう気を配ることも欠かせなかった。その胸の内には、まだまだおもしろい話しが眠っているにちがいない。話しを聞きだすタイミングとしては、お茶やコーヒーを飲んでいるときがいちばんだ。くつろいだ雰囲気の中だと、皆、かまえずに話しをしてくれる。無論、酒が入れば口の動きはさらに滑らかになるが、根が照れ屋の男たちだけに、ついつい景気づけが過ぎてしまい、肝心の話が始まるころにはすっかり酔いが廻っている。結局、まともな話を聞けずに終わることも少なくなかった。p135 捕鯨問題について被害者意識のつよい日本人にとっては、外国は一枚板のように見えて、対話の糸口をつかみきれないところもあるが、C・Wニコルの一連の活動や著書は、よいきっかけづくりになってくれる。 妙な話だが、グリーンピースとはだいぶ前に和解した。少なくとも、グリーンピース・ジャパンとは友好関係にある。捕鯨や人間の食用として海洋哺乳類を捕獲することの是非など、全面的に合意するのは難しいとしても、その他の人類が直面する環境問題において、われわれは多くの点で意見を同じくしているからだ。p234 二十一世紀を迎えた今、クジラにとって最大の脅威は、もはや捕鯨船ではない。それは化学物質による汚染や騒音公害、地球温暖化などのもたらす環境破壊だ。地球上で、はるか昔から紡がれてきた「命の曼荼羅」が今、崩壊しようとしている。その点については、このウェールズ系日本人(作者は、1995年に日本国籍を取得した)も、グリーンピースやフレンズ・オブ・アースを初めとする多くの環境保護団体も、全く同意見だ。p234 当ブログも同意見だ。
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2008.01.20 10:51:41
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2007.12.16
テーマ:人間とは何か(26)
カテゴリ:チェロキー
初読よりつづく 年末も押し迫り、なにかと気ぜわしい。読書もブログもままならない状況が続いているが、どっちみちこのブログも一定の目標をクリアして、次へのステップへの歩みが始まっているところだ。締めくくるものは締めくくり、また新たな気分で新年を始めようと思う。来年のことを語ると鬼が笑うので、まずは、今年中にやらなくてはならないことはキチンとしあげよう。 「シャンバラ 勇者の道」はそんな中にあって、多忙を極めた今年一年ではあったが、ふと来た道を振り返り、新たなる明日への想いを強くするとき、自分自身を見返させてくれるよい本だ。このブログでは、チベット本は「アガルタ」カテゴリや「オーム・マ・二・ぺ・メ・フゥン」というマントラを追いかける道筋の中で100冊以上読んできた。しかし、その中にあって、たった一冊だけ、チベット本を差し出しなさい、と要求されれば、現在の私は、間違いなくこの一冊を選ぶ。 この本の最初の章で、シャンバラ王国の歴史とシャンバラの支配者たちにまつわる伝説を話した。そこで言ったように、この王国はいまも世界のどこかに隠れていると信じている人たちもいれば、この王国は喩え話にすぎないと考える人たちもいるし、ある時代に天の領域に移動したのだと信じる人たちさえいる。だが、私たちがこれまで話し合ってきたシャンバラの教えによると、これらの教えの源泉は---あるいはシャンバラ王国そのものは、と言ってもよいが---神秘的な天の領域にあるのではない。 それは宇宙的な鏡の境地、くつろいで意識を拡大させた人間ならだれでも立ち入ることのできる根源的な領域に存在する。この観点から見ると、リグデン王と呼ばれるシャンバラの支配者たちは、宇宙的な鏡の領域の居住者にほかならない。彼らは広大な心の知恵、ドララの究極の知恵の根源的な表われと言ってもよい。だから彼らは究極のドララとも呼ばれている。p222 「My life in Orange」も「アメリカへの道」も、このブログで読み進めている段階では、ちょうど1980年代初半に差し掛かっている。そのアメリカのボールダーにおいて、当時のチョギャム・トゥルンパは、この「シャンバラ・トレーニング」プロジェクトを進行させていた。「スピリチュアル・データ・ブック2004」では次のように紹介してあった。 チベットの理想郷、シャンバラ。本書はその諸説を追うものではなく、恐れを知らない勇者の道について説かれた極めてベーシックな本である。専門用語もほとんど使わずに、日々の中で、真っ当に、そしてスピリチュアルに生きるための知恵を教えてくれる。「スピリチュアル・データ・ブック2004」p218 「世界のスピリチュアル 50の名著」にもチョギャム・トゥルンパの代表作「タントラへの道」を一冊あげながら、彼のプロフィールをこまかく紹介している。 街角やレストランで出くわしただけなら、誰も自分の話しなど聞かないだろう。トゥルンパは言う。しかし、彼がチベット出身で、トゥルンパ・トゥルクの11番目の生まれ変わりと知るや、突如押し寄せてくる。人は精神的助言者を見つけると、その素晴らしい師が宇宙の神秘への扉を開けてくれるに違いないと興奮するものだ。しかし、この興奮が冷めると、残念なことに、真のスピリチュアリティを求める道では、誰も自分を助けてくれないことを知る。独力で退屈な今を重ねてやっていくほかないのである。「世界のスピリチュアル」p348 私はふと考えることがある。新しいコミューンをつくろうと70年代からインド国内のあらゆる可能性を探求したが、それが不可能だとわかった時、Oshoが、ここでアメリカへいくのもいいかな、と新たなる選択を見出したとしたら、その時、アメリカでのトゥルンパ達の「成功」が脳裏に浮かんだのではなかっただろうか。アメリカにはまだまだ受け入れる余地がある、と。 そのころ、ボールダーでは、パンタ笛吹が「寿司三昧」を開いていただろうし、ケン・ウィルバーが、「シャンバラ勇者の道」の原稿に目を通し、助言をしていた。そんなことをいろいろ機縁を感じながら、忙中閑あり、この本を走り読みした。この本、原書は決して新しくはないが、日本語版は2001年になって初めて訳出されたことは、それだけこの本に今日性があることを証明していると言っていいだろう。
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2007.12.16 13:18:14
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2007.12.07
テーマ:人間とは何か(26)
カテゴリ:チェロキー
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というか、多分、この倍か三倍の書籍がウエイティング・リストに載っており、ここで<総括>することなんか、とてもとてもできるわけはないのだ。<チェロキー>カテゴリのスタート地点で思い当たったことどもをもう一度再点検し、やがては<アンソロポロジー>カテゴリとして再スタートするための、なにはともあれの中間チェック程度の意味しか、現在はもっていないだろう。 「ローリング・サンダー」は訳者たちへの思い込みが強すぎて、簡単に読み進めることができなかった。<再読>本に上げながら、今回<再読>できなかった。物理的な時間的拘束の関係ではない。今は読み進めることができない。ただ、すでに読了しているので、この本のもっている意味はわかっている。 この本は、私のネイティブ・ピーポーへの接近のほぼ出発地点に属している。チェロキーのメディスンマン、ローリング・サンダーは、もっともっと親近感をもって、肉親的親愛の情を持って見つめられるべき存在だ。再スタートの機会を待とう。 「1491」は<再読>完了したばかりだ。「ジャーナリスト」の手による歴史と地理の見直しは、固定的になりがちないままでの思い込みをこてんぱんにやっつけてくれる強いパワーがある。それこそ、歴史観がひっくり返るほどの「新発見」が、たしかにこの本の中にはある。 しかしまた、その探求の目は、時間や空間の「外」に向けられており、「内」なるものへの目が不足しているので、「私は誰か」という問いを背負い続けるバックパッカーたちには、ちょっと距離感を感じてしまうポイントだ。「フラワー・オブ・ライフ」(<再読>最後の砦として待ち構えている)シリーズのように、おせっかいがましく「私は誰か」という問いを突きつけられるのも、ちょっと辟易なのだが、すこしはそういう味付けが、この「1491」にもほしかったな。 「プレアデスの智慧」は、ある意味、お手軽詰め合わせ品というか、お子様ランチ的(著者には失礼だが)な味付けが、実に現在の私にはぴったりだ。まずはあまり重くならないでいこうよ。そして、あちらもこちらも、おいしそうなところは手を出してみよう。そして、なにはともあれ、全体の鳥瞰的納得観はやっぱり必要でしょう。 「チェロキーインディアンからのメッセージ」というサブタイトルもいい。この本は10年ほど前の本であり、また寡作(であろう)な著者のほぼ唯一と言っていいくらいの書物のようであるが、そこがまた私には、煩雑な「おっかけ」が発生しない分、自己完結的なスッキリ観がある。もし三読や愛読するならこの程度の本がいいのだが、はてさて、何度もこの本を読んでいたら、化けの皮がはがれて、飽きてしまわないだろうか、という心配もないではない。
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2007.12.07 09:07:24
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カテゴリ:チェロキー
「チェロキー」カテゴリを通り過ぎ「総括」して、「レムリア」カテゴリもさっさと卒業して、次のステージへ移ろうとするこちらの意図を見透かすように、最後の最後に待ち構えている関門に位置する一冊一冊は、今までよりもさらに重きをなして、上から覆いかぶさってくる。 重い、なんせ重い。重いはずだよなぁ、もともと新書読み程度の身軽さとスピードですすめていたこのブログで、とても読んでいられないよ、と後回しにしてきたのが<再読>本であり、しかもその数十冊の中でも、特に最後に残ってしまったのが、「チェロキー」や「レムリア」カテゴリの<再読>本たちなのだから。 師走の風が吹く世の中は、ますます多忙を極め、次から次と新しい課題を押し付けてくる。ひとつひとつを解決しつづけなくてはならない立場にあれば、なにをこんな多忙時期に、<再読>本たちと格闘しなくてはならないのか、と自嘲せざるを得ない。いやいや、多忙期だからこそ、超多忙期の前に、こちらの煩雑な<再読>本たちをかたづけなくてはならないのだ、と、反旗を翻す反乱分子もわがこころの中に住んでいる。 もともと結局は、1000冊の本をまとめようとするのは、かなりの無理があり、あくまで仮定的に「インテグラル」はしてみるものの、いつかはまた下から盛り上がり、上から垂れ下がり、隣からははみ出し、前には立ちふさがり、後ろからはガンガンと押し付けてくることになるのだろう。 「1491」、この本も新刊であるだけにその視点も新しく、また、わが内なる「新発見」も続き、簡単に読み進める一冊でもなければ、簡単に読み進めるべき本でもない。作者が10年の歳月をかけたというごとく、読者もまた、時間をかけてゆっくりと味わってしかるべき一冊であろう。 その印象は初読時となんら大きく変わるものではない。自らを「ジャーナリスト」と「卑下」する著者の渾身の一冊が切り開いている地平ははるかに広大であろうと推測できる。彼の立場であるからこそ展開できた大胆な推測もあるだろうし、いづれ誰かがやらなくてはならなかった部分もあるに違いない。いまはただ、そう遠くない時期に三読の機会がくるかもしれない可能性を残して、一旦、締めておく。師走の暦もあと、残すところ、すくなくなってきた。
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2007.12.07 08:33:42
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2007.12.06
カテゴリ:チェロキー
<1>よりつづく
アガルタについては、佐藤健寿ブログ「X51.ORG」の中の「謎の地下王国シャンバラは"実在"するか ― 視察チベット編」に詳しい。本とブログの記述を読み比べてみると微妙に違いがあるが、それは、出版時における統一感のためと思われるし、若干の補足という意味もあるだろう。アガルタをAgharttha(p194)という表記にしていることは、このブログにおいては目新しい。 シャンバラ、シャングリラ、アガルタに関しては、それぞれの成り立ちを説明しているものの、それぞれが互いに同一視化され、なおかつ、実在する場所としては特定できないとするあたりは、結論としてはとくに目新しくはない。ただ、著者の「世界の奇妙なニュースや、奇妙な事件を日々収集することをライフワークとしている」旺盛な表現力と行動力には目を見張るものがある。 UFOやヒトラー、雪男などへのアプローチは、私にとってはむしろ伏線で、あまりそちらの方向へ脱線されると、なんともついていけない。落合信彦などへの言及も、この本で初めて知ったこの「ノビー」とやらの立ち居振る舞いも、個人的には、やはりあまり感心しない。この人物は、母校の記念行事で講演を行ったので、もう20年近く前のことになるが、私も聴いたけど、その当時もピンと来なかった。 「70~80年代のいわゆるニューエイジ・ブームにおいては、西洋における膨大な数のシャンバラ(シャングリラ)本が出版されているが、その多くは「ラマ僧から聞いた意味深な話→アジア放浪するも発見できず→実はシャンバラは私たちの心の中にあった」といった「ありがちな」流れの物が多く、今回の視察においてはあくまでの実在としてのシャンバラを重視したため、それらの本は一切資料としていない。」p202 ブーム云々はともかくとして、「シャンバラは私たちの心の中あった」というオチが、私にはいちばんホッとする結論だ。「心の中」と簡単にいってしまうが、単に幻想や空想という意味ではなく、リサ・ランドールが仮定するような異次元の世界として謎解きされていくのが、真っ当な方向だろう。 もちろん佐藤健寿のようなバックパッキングで、実在の存在を探求する人々のことを嘲笑する気は毛頭ないが、その勝算は薄いだろうと、初読時より、私は早々と結論を出している。地球空洞説にしたって、誰がどう真顔で説明しようと、その荒唐無稽な論理には、まともな現代人ならついてはいけるはずがない。どこかで折り合いをつけなくてはならない。そこからの解決策として残されているのは、唯一「5次元」立証可能性しかないだろう。
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2009.01.21 12:56:33
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2007.12.04
テーマ:人と自然の関係(597)
カテゴリ:チェロキー
「アウトサイダー」以来、コリン・ウィルソンの視点は一貫しており、確かに、最近作のこの本は、彼の集大成ともいうべき位置にある一冊といえるだろう。 ペンと紙を駆使することによって、現代人は地球史上、最も複雑な文明を作りあげた。脳は瞬間的に計算する能力を失ったが、現代人はコンピューターを使ってこれを補うことができる。 <再読i>での4つの疑問のうち、古代文明の存在、カレンダー技術の構築、はわかったとしても、地球人以外の生命体の存在、意志伝達方法については、まだ本書においてはまだ解明されていない。ただ、ウィルソンは、「あちら側」からのメッセージではなく、「こちら側」から「あちら側」への検索機能でいえば、シャーマニックな存在が大きいだろうとし、また、そこには薬物的効果がある植物などが影響を与えていただろうと推測する。瞑想にも言及している。 あるいは「地球人以外の生命体の存在」ということについては、「生命体」をどのように捉えるかだが、いわゆる肉体を持った人間という意味でない「存在」と人間が交流することはありえると見ている。 だがヨシはものごとの存在やエッセンスであるというだけではない。それは超感覚的な領域に独自の形で存在しており、この領域において常に両義的だ。つまり「似ているけど似ていない」「同じだが違う」。そして人間は、三つの部分から成っている。肉体、理性や言語と関連する社会的な自己、社会的でもなければ人間的でもない霊体だ。これは容易にほかのヨシと混じりあう。p261 聖数7とプレアデスの関係や、その他の幾何学や数理における神秘性について、本書においては多くのページが割かれている。細かい数字は単位が不明なこともあってあまり追いかけなかったが、いつかその関心が深まったら、また本書を<三読>するのもいいだろう。
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2007.12.05 08:10:38
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