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書評日記  パペッティア通信

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Nov 11, 2006
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▼  「評価に困る本」というのは、結構、こういう新書部門には多い。 とりわけ、意欲的でありながら、空回りしている作品だと、この可能性は極めて高くなるだろう。


▼  ミッション・スクールは、なぜ東京以外の場所にまで、多数作られているのか。 それも、キリスト教の伝道活動の一環として設立され、名門校の主流を構成しているくらい広範に。 しかも、驚くべきことに、社会にはキリスト教徒はほとんどいないにも関わらず。 仏教徒のいない国に、名門校が仏教系である国なんて、想像することができるだろうか。 筆者は、そこに、ミッション・スクールのもつ、西欧文化導入と近代化のルートとしての機能をかぎつける。 


▼  筆者によれば、ミッション・スクールに通わせることは、西洋的な礼儀作法・服装・身のこなしといった「プラティーク」であり「ハビトゥス」の表象を身につけさせることで、「清廉潔白・明朗・健全」といった、リスペクタビリティなる社会資本を獲得するための行為だったという。 1890年代以降、近代教育の制度化と大衆的情報メディア・ネットワークの確立は、新聞をうむ。 これは新しい「醜聞」をうみおとす。 リスペクタブルな国民像を推奨して身につけさせるための表裏一体の装置、「制度としてのスキャンダル」に、ミッション・スクールは巻きこまれざるをえない。 明治期以降も、依然として、忌避すべきものだった、キリスト教。 仏教界も、キリスト教に脅えて、「不敬」「非国民」バッシングに荷担する。 この「不敬」というスティグマは、ミッション・スクールのもつ、「ハイカラさ」「西洋的教養」というチャーター効果を削減するものの、内部から活性化させる機能を果たしていたという。  


▼  筆者は、なおも問いかけをやめない。 男子校にもミッション・スクールはあるはずなのに、なぜ女子校・女学生だけイメージしてしまうのか。 このジェンダー・バイアスは、なにを意味しているのか。 肥大化するミッション・スクール幻想を提供したメディア、文学を丁寧に検証してゆく。


▼  徳富蘆花、島崎藤村などの小説をみれば、その理由は、近代的女学校の誕生が、遊郭ではない女性との交際を可能としたことにあるらしい。 文芸作品に流れる、ファム・ファタル(男を破滅に導く女性)としての、ミッション・ガール像。 それは、ヨーロッパのファム・ファタルが、商売女としてイメージされるのが通例であり、明治~大正時代には「毒婦」「妖婦」ものが流行していたのとは、まったく対極にあたる。 彼女たちミッション・ガールは、「知的」「清らか」「イノセント(無垢)」として形容されるのだ。 彼女たちは、「不良」の条件であるロマンティストでリベラルな風土であるミッション・スクールで育ったためか、文学趣味で芸術を愛好する「境界破壊者」として描かれる。 そこに筆者は、明治時代以降の正統イデオロギーであった「立身出世主義」「良妻賢母」に対する、近代日本知識人の欲望の陰画としてのミッション・ガールを嗅ぎつけていく。


▼  「教養ある自由人」。 これを目指してリベラル・アーツ教育をかかげたミッション・スクールの対極には、手芸・裁縫などを中心とする「良妻賢母」主義の官立女学校が存在している、という。 非産業的なリベラル・アーツに対して、生産に直結した後者。 近代都市文化に根ざしたミッション・スクールの洗練された教養主義は、近代日本における農民型刻苦勉励主義に支えられた「教養主義」とも違うものだ。 ミッション・スクール卒の女性は、同じ教養主義をもつ高学歴の男性と結婚しても、良妻賢母をもとめる夫の圧力によって、やがてはキリスト臭の教養主義を捨てざるをえない。 しかし高学歴男性は、「良妻賢母」教育の実科高等女学校よりも、リベラル・アーツ色の強い、ミッション・スクール卒の女性を求めたという。 ミッション・スクールとは、見合い履歴書の記号として絶大な威力を発揮することで、良妻賢母という「より大きな国民的規範」に統合されていったらしい。


▼  昭和期になると、正田美智子妃によって、ミッション・スクールが大フィーバーになる。 平民、恋愛結婚……「わたしも美智子さん」ブームは、近代家族の理想の頂点を皇室に見いだしたことで、この神話を完成させた。 


▼  雅子妃も同様な境遇にもかかわらず、なぜフィーバーは起きないのか。 もはや「刻苦勉励」「立身出世主義」が退潮してしまい、立身出世主義者の愛憎をかきたてたファム・ファタルとしてのミッション・ガールも魅力を失っていたからだ、という。 ミッション・ガール(そしてボーイ)は、語学堪能・海外ブランド品を身につけたもの、としてチャーター効果をつなぎかえた。 今では、脱宗教化された時代の宗教学校というパラドキシカルな存在、ミッション・スクールは、オシャレでクラス感を感じさせる、「純粋培養された人々」、古色蒼然で笑いを誘うもの、性的倒錯の舞台など、様々にイメージを分裂させながらも、なおその価値を終えてはいない。 そう語って本書は閉じられる。
  

▼  『三四郎』美禰子のモデルは、平塚雷鳥であったという。 ミッション・スクールに「お坊ちゃん、お嬢様」学校のイメージがあるのは、日本では財産と社会・文化資本には密接な関係があるため、らしい。 ミッション・スクール的プラティークは、クリスマスなどだけではない。 ミサにおける「起立、唱歌、着席」儀礼が導入されることで唱歌がはじまっただけでなく、ミサは涅槃会・花祭の式次第にも影響を及ぼしているという。 なによりも、ミッション・スクールをまきこんだスキャンダルは、批判者と学校側で、存在しない事柄の是非をめぐる空中戦を生むことによって、「禁忌の制度化」過程、あらたなコードの定着過程でもあった、とする視点が面白い。 「キリスト教不敬事件」を通して、教育勅語のお辞儀の角度とかが定められていく姿は、毎日新聞佐賀支局・在日3世記者の「天皇不敬」が、ネットで話題になっていたことを考えると、戦前を彷彿とさせて面白い。 


▼  たいへん、魅力的な議論のように思えなくもない。 私も以下の事実を知らなかったら、諸手を挙げて賛成してしまい、コロっと、騙されてしまう所だったかもしれない。 前近代日本は、欧州(中国、インド、イスラムも)と比較すれば、隔絶した女子労働力比率をもつ、まれにみる「女性が社会に進出していた」社会だったことを。


▼  となると、ミッション・スクールは、俄然、別の意味を帯びてきやしないか? 


▼  なによりも、英語を学び社会進出するための手段、ミッション・スクールとは、女性版「立身出世主義」ではないのか。 実際、結婚が立身出世といえるのかは別にしても、高学歴男性と結婚する手段だったじゃないの。 はたまた、農家において「良妻賢母」であることは、可能だろうか。 「裁縫」技術は、わざわざ学校に行かせて倣わさなければならないほど、農家女性における実学として大きなウェートを占めているとはとても思えない。 女性は、朝から晩まで、裁縫以外にも農作業していたに決まっているだろう。 手芸をさせる暇のある農家など、いったい、どこにあるだろうか。 そもそも一般の農家が、実技系高等女学校に、娘を入れることができただろうか。 


▼  そう考えていくと、「ミッション・ガール」をめぐる欲望の回路は、立身出世主義の陰画では断じてない。 ミッション・スクールは、女性にとっては、語学教育などによる純粋な、『女性版立身出世主義』物語の一つではないのか。 なぜ彼女は、ミッション・スクールの社会資本を獲得することによって、女性側がどれくらい階級上昇に成功したのかを把握しようとしないのか。 ほとんど、男性側の幻想しか追っていない理由が分からない。 そもそも、女性側は、ミッション・スクールをどのように戦略として位置づけていたのか。 本書では、ほとんど分からない。


▼  なぜ彼女のみならず、一般的の人々は、「女性は社会進出していなかった」と、考えてしまうだろうか。 


▼  江戸時代、女性は働いていたし、働かない女性は、離縁されかねないものであった。 ところが、明治から大正にかけて、都市化・産業化によって中産階級が成立するとともに、その現象に変化が生じていく。 年齢別女性労働力比率は、「台形型」から「L字型」へとかわってしまう。 すなわち、社会の労働現場から、女性の退場がはじまってゆく。 人通りから、女性が少なくなる。 女性は、家庭に閉じこめられただけではない。 女性は、学校へも、閉じこめられていく。 そこに花咲いた女性の2つの類型。 これこそ、「良妻賢母」と「ミッション・ガール」ではなかったか。 「ミッション・ガール」も「良妻賢母」も、女性が社会から退場する社会条件が整備されることによって初めて現出した、男性のフェティシズムにすぎないのではないか。 


▼   彼女は、根本的に間違っているのではないか。 「ミッション・スクール」幻想の終焉とは、立身出世主義の終わりではない。 女性の再社会進出とともに、「良妻賢母」幻想とともに「ミッション・スクール」幻想が消えたことに留意せねばならない。 それは、女性への幻想が「摩耗」してしまった結果なのだ………


▼  むろん、これは、佐藤氏の出してきた資料や論点について、別のグランド・セオリー(大理論)で解釈しなおしてみたにすぎない。 しかし、いかようにも解釈できるような議論は、どんなに面白くても、空回りしている、破綻している、思いつきにすぎない、とは言えるかもしれない。


▼  というわけで採点は辛い。 お許しあれ。 


評価  ★★★
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Last updated  Apr 1, 2007 12:21:44 PM
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