カテゴリ:観念重視から事実重視への転換
被害妄想という言葉があります。被害を受けていないのに実際に被害を受けているように感じることである。加藤諦三氏はこれにヒントを受けて被責妄想という造語を作られた。これは実際に人から責められていないにもかかわらず、人から自分の存在あるいは自分の行為を責められているように誤解している人のことをいう。
また被蔑妄想という造語のことも書いておられる。人が自分のことを実際には蔑視していないのに蔑視しているかのように思ってしまう人のことをいう。 そうゆう人は常に人の言動に振り回されるようになり、自分の人生ではなく、あたかも他人の人生を生きていくようになる。苦しいばかりで、楽しいことやほっとすることはなく、生きることは地獄以外の何物でもない。 対人恐怖で苦しんできた私の人生はまさにこの通りであった。ただ妄想が原因で、精神病院に入院するまでには至っていなかった。しかし息苦しいことはこの上もなく、つらい生活が続いたのである。 原因ははっきりしている。子供の時からいつも親から怒られて成長すると、大人になると人の言動がとても気になり、自分のことを責めているように感じるようになる。 でも今親を恨んだところでどうにもなるものでもない。 今から子育てをする人は反面教師として子供の育て方に十分に活かしてほしいと思う。では今現在苦しんでいる人はどうしたらよいのか。これについて加藤諦三氏は明確な指針は打ち出しておられないと思う。私はこの苦しみに対して森田理論の中にその答えがあると思っている。 森田理論では被責妄想、被蔑妄想を持っている自分を見つめてみましょうといいます。 それをいいとか悪いとか価値判断はしません。是非善悪の判定はしないのです。 その特徴を自分なりによく観察します。生活する上でどんなふうに問題が生じているのか。 それは生きていく上に決定的な障害なのか、あるいは学校に行ったり会社に行ったりする上で、苦しいけれども最低限のことがなんとかできるレベルなのかどうか。 あまり自分で手に負えない場合は、医師やカウンセラーに相談しないといけないかもしれません。 私のようになんとか社会生活を続けていける状態でしたら、そういう自分を正しく認識することがまずもってとても重要だと思います。割り切るといってもいいでしょう。あきらめるといってもいいでしょう。適当な言葉は見つかりませんが、要するにそういう事です。 裏を返せば被責妄想、被蔑妄想の自分を変えようとしないことです。それと共存して、そういう自分をいたわり励まし続けていくという覚悟を固めることです。 その覚悟を決めたら葛藤がなくなります。苦悩することがなくなります。 なぜならそういう自分をいじめる自分がいなくなったからです。 覚悟を決めた人は、被責妄想、被蔑妄想を持っている自分ができることしかしません。 その自分を起点にして足を踏み出すことができるようになります。 自己否定する自分は駆逐したのですから、こんなに安楽な生き方はありません。 森田理論学習はそういう考え方を身につけていくことなのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.05.19 00:02:56
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