カテゴリ:観念重視から事実重視への転換
豊臣秀吉は駆け出しの頃、木下藤吉郎と呼ばれていた。
木下藤吉郎は織田軍団の家老たちから徹底的に嫌われ、あらゆる嫌がらせを受けていた。 木下藤吉郎はいじめられるために生まれてきたような人間で、尾張中村の田舎から出てきた成り上がり者であった。出目といい、猿のような容姿といい、いじめられる条件は揃っていた。 しかし、木下藤吉郎は、卑屈なることなく、前田利家、丹羽長政などと親しくなった。 柴田勝家や佐々成政などとは犬猿の仲であったが、総帥である織田信長には可愛がられた。 その組織の長に可愛がられていたため、柴田勝家は苦々しく思いながらも、秀吉を認めざるをえなくなったという。 学校で言えば、最初はみんなから嫌われ者であったにもかかわらず、リーダー的存在にのし上がっていった人である。 普通、そのような状態になれば、友達が恐ろしくなり、あるいは自己嫌悪に陥って、不登校や引きこもりになる人が多い。それでは、秀吉はなぜそのようにならなかったのか。 子供のイジメによくあるのが、身体や顔などの特徴をとらえて、揶揄をすることだ。 秀吉の場合は「猿」である。これは秀吉も相当気にしていた。 しかも百姓の出である。武将からしてみると百姓は1人前の人間ではない。むしろ動物に近いわけです。だから、そこから出てきて、しかも顔が猿に似ているというのは、武家社会では大変なハンディである。 それは悔しいけれども仕方がなかった。 しかしここからが我々と違うところだ。 秀吉はそれを逆に取って、 「猿」と言って可愛がられよう、愛嬌を作ろうと考えた。 そして、なんと自分で自分のことを「猿」というのである。 信長に「この猿めにお任せあれ」と言うようになる。 普通は周りのものから顔のことを取り上げられて、軽蔑されたりからかわれたりすると、 「わしは猿じゃない。れっきとした人間だ」などと反発するのではないだろうか。 秀吉は自己否定し、卑屈になっていると言うよりも、よい意味で開き直っているのではないだろうか。 事実を見つめ、事実を認めていると言った方がよいかもしれない。 事実を隠したり、捻じ曲げようとしていない。ありのままに公開しているのである。 私の中学時代の経験であるが、テストで悪い点をとると、その答案用紙はすぐに机の中やカバンの中に隠していた。 ある友人は、悪い点を取った時に限って、その答案用紙を級友たちに面白おかしく見せていた。 級友たちはとても喜んで、「どうしてこんな所を間違ったのか。ばかだなあ」などとはやし立てる。 そのうちその答案用紙は多くの級友たちにたらい回しされていた。 その友人は、それを取り返そうともせず、されるがままにされていた。 その友人は高校を卒業してある大手企業に就職した。 同窓会で会って近況を聞いてみると、なんとその会社で部長職にあるという。 大勢の部下がいるという。これには同窓会に参加していた人の度肝を抜いた。 あの成績の悪かった友人が、今では級友たちを押しのけて1番出世していたのである。 私はこの友人は、根回し、仲間づくりや対人折衝能力の賜物ではないかと感じた。 その中でも、自分の不利な事実でも隠したりねじ曲げたりすることなく、事実のままに公開するという姿勢が良い結果を招いたのではないかと確信した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.07.07 06:30:14
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