森田理論は、西の横綱を「生の欲望の発揮」とすれば、東の横綱は「あるがまま」のような気がする。
つまり、この2つのキーワードは森田理論学習では大きな柱となるのである。
今日は、 「あるがまま」について投稿してみたい。
「ある」は、物、自然、自分、他人が存在するということである。
「まま」は、 「そのまま」ということである。
続けていえば、そのままに存在するということである。
存在するそのままに生きていく。事実そのままに生きるという事である。
これが「あるがまま」に生きるということの本質である。
自然や動物の世界は、まさにそのままに存在している。
人間だけが、それからはずれた生き方をしている。
それは人間が、他の動物と比べて、言葉を使い、記憶力が発達し、認識や解釈、判断、内省、思考などができる前頭前野が発達しているためです。そのおかげで高度な文明を築き、文化を発展させてきました。
はかり知れない恩恵を人類もたらしてきたのは紛れもない事実です。
その半面、事実そのままに生きるという本来の生き方は、軽視されてくるようになりました。
観念が重視されて、事実を観察する態度が希薄になりました。
事実そのものがいとも簡単に否定されるようになってきました。
事実を認めない。事実を隠蔽する。事実をごまかす。事実をねじ曲げるなどが横行するようになりました。そうした態度のことを森田では、「はからい」といっています。
それをすると益々事実から離れていってしまいます。常識や観念全盛の時代に変わってきたのです。
それが人間の精神分野に多大な悪影響をもたらせていることに早く気が付く必要があります。
森田先生は、はからいを止めて、現実、現状、事実に立脚した生き方に転換すること求められています。
森田先生が大正から昭和の初期にその弊害を見抜いて喝破されていたことに驚かされます。
私は、森田全集第5巻の619ページに載っているイソップ物語のきつねとブドウの話を思い出します。
ある時きつねが実がたわわに実ったぶどうの木を見つけます。
きつねは早速飛び上がってぶどうを取ろうとしました。
ところが、木が高くて自分の力では取ることができません。
そのうちエネルギーがなくなり、やる気も気力も失せたきつねは次のように考えました。
「あのぶどうはきっと酸っぱくて食べられるような物ではないはずだ」
ぶどうが食べたいという自分の気持ちを無理やりこじつけて抑圧しようとしたのです。
これが発展すると、自分はもともとぶどうなんか食べたくなかったのだなどと、欲しいという事実をごまかすようになるのです。
さらに、ぶどうを取る能力のない自分を、自己嫌悪や自己否定するようになります。
このような自分を生んだ親を憎むようなことにもなります。
そしてぶどうを欲しがらない人間になるために精神修養しよう。
簡単にぶどうが取れるような超能力を身につけたいと空想するようになります。
迷いの元は、すべて事実を「あるがまま」にみようとしないことです。
「自分はぶどうを欲しがっている」と「自分の力ではぶどうを取ることができない」の2つの事実を認めようとしないのです。
苦しい困難な現実に直面したとき、動物であれば四方八方に力を尽くして、及ばざればそのままその事実に服従します。この点は人間が動物から謙虚に学ばなければなりません。
人間は、事実をあるがままに認めようとせず、観念で事実をごまかしたり、自分を欺こうするのです。
もしイソップ物語のきつねが、2つの事実を認めたらどうなるのか。
自己嫌悪や自己否定に陥る事はなくなるでしょう。
どうにもならない事実に対して向き合ううちに、気づきや発見、工夫を思いつくに違いありません。
てっとり早いところでは、棒のようなものでぶどうを叩き落とす。
あるいははしごや脚立のようなものを探しに行く。
また親しい友人に声をかけて、協力を得る。
そうすれば、最終的には、最初の目的を達成することができます。
その前提としては、どうしてもままならない事実を素直に認めていくことが必要なのです。
「かくあるべし」 に自分の立ち位置を決めて、現実、現状、事実を否定するところから何も生まれません。生まれるのは疑心暗鬼と自己否定のみです。
現実、現状、事実に自分の立ち位置をしっかりと決めて、そこから上目線で一歩一歩前進していくのが人間本来の生き方です。実際には二歩前進して、また一歩後退というケースが多いでしょう。
それでも諦めず粘り強く前を向いて生きていく。
これが森田理論でいう「あるがまま」の生き方の本質だと思います。