カテゴリ:人間関係、不即不離
親戚の法事で次のような話が出ました。
私のいとこで奥さんに先立たれて、今は一人暮らしをしている人の話です。 70代の人ですが、農作業をしながら生活しています。趣味は競馬です。 その人には3人の子供がいるのですが、いずれも家を出て生活をしている。 その子どもたちは家には全く寄り付かない。連絡は完全に途絶えている。 どこに住んでいるのか、見当はついているが、正確には分からない。 それは子どもに厳しく当たってきたからだという。 父親を鬼のような人だと思っているのだ。 父親を毛嫌いして、もう実家には帰らないという決意を持って出ていった。 そのつけが今頃になってやってきた。 孫の顔を見てみたいが、かなわないだろうという。 自分の子育ては完全に失敗だったと後悔の気持でいたたまれなくなる。 私はその話を聞いて、それは子育てに失敗したのではなく成功したということではないか。すべての子供が親を当てにしないで自立できたということはたいしたものだ。後悔する必要はないと思う。自慢してもよい話ではないか。 後悔しているというが、それは子どもに何かを期待しているやましい気持ちが見え隠れしているからではないのか。 子どもが親を親とも思わなくなるというのは、寂しいものがあるが、親の務めは子どもが自立して一人で生きていけるようにすることだ。 別に立派な親でなくてもよいと思う。 だらしない親で、子どもから毛嫌いされるつまらない親であっても結構。 子どもから反面教師にされるということは、子育てでは大切なことだ。 身体を張って反抗するということは、子どもにとっては「あんな親だけにはなりたくない」という自立心の表れそのものだ。 そんな子育てを貫いたということは、実感としては少し寂しいが、立派な子育てをしたということだ。 あとは自分でやってくれと押し出してやればよいと思う。 未練がましく、いつまでもなれなれしくしてはいけないと思う。 テレビドラマの中で、どちらが親で、どちらが子供か分からないような友達関係のような親子が出てくるときがあるが、これは共依存の関係に陥っているのではないか。こんな親子関係では、子どもは家から出ていかない。 いつまでも経済的に親に依存してしまう。その方が快適だからだ。 経済的に自立できないということは、精神的に自立できないということと不可分の関係にある。 2つの側面で自立できないと、社会の荒波を乗り越えていくことは極めて難しくなる。 親が仮に亡くなってしまうと、太平洋の真ん中で羅針盤を失った船のようになる。 親の援助を期待しないで、自分の力で生きているというのは素晴らしい。 今の世の中を見ていると、子どもが自立したといっても、親の庇護のもとで生活している人がほとんどだ。 子どもが生活に困ったと言えば、金銭的な援助をする。 我が家でも子供が高速道路でやってくると高速代や燃料代は出してやっている。 孫が大学に入るという場合は、多額の支援を当然のように期待している。 家を建てると言えば、両方の親が相当入れ込んでいる。 子どもは親の残した家や財産を相続するという前提で生活設計をしている。 これではいつまで経っても、子どもは自立できない。 そういう関係を続けていくことが本当に子どもにとって幸せなことなのか、今一度考えてみることが大切になる。 キタキツネの母親は、子どもが赤ちゃんのうちは手取り足取り世話をして育てる。そして少しずつ狩りを教えていく。 そして一人前になったと判断すると、母親は子どもを巣から追い出すという。 子どもは名残惜しく巣の周りをうろついているが、母親は牙をむいて威嚇する。 どうしようもなくなった子供のキタキツネは、断腸の思いで生まれ育った巣を離れて自立していく。これが自然界で繰り返されている現実なのだ。 人間の子育てもこれに学ぶ必要があると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.09.17 06:47:46
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