図書館で『ワイルドサイドをほっつき歩け』という本を、手にしたのです。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』というドキュメンタリーを読んで以来、著者のファンでおます。
【ワイルドサイドをほっつき歩け】
ブレイディみかこ著、筑摩書房、2020年刊
<「BOOK」データベース>より
EU離脱、競争激化社会、緊縮財政などの大問題に立ち上がり、人生という長い旅路を行く中高年への祝福に満ちたエッセイ21編。第2章は、現代英国の世代、階級、酒事情についての著者解説編。
<読む前の大使寸評>
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』というドキュメンタリーを読んで以来、著者のファンでおます。
rakutenワイルドサイドをほっつき歩け |
英国での中国人レイシズムが語られているので、見てみましょう。
p20~23
<2 木枯らしに抱かれて>
わが家のある公営住宅地は、海辺のリゾートとして知られるブライトンという街の丘の上にある。で、この丘の斜面がけっこう急なので、一番上のほうはもう霞でもかかってるんじゃないかというほどの高度になっていて、そこまで登って行くのもけっこう大変だし、っていうので人が寄り付かない場所になっている。しかし、そのひっそりとした場所について不穏な噂が流れ始めた。
どうも中国系とおぼしき移民の方々が、二軒の住宅の中に大勢で暮らしておられるというのだ。
英国では、2004年に、ランカシャー州の海岸で採貝作業に従事していた中国人移民の方々が、潮が満ちてくる時間を雇用主に知らされてなかったため、23人も溺死してしまったという痛ましい事故が発生し、『Ghosts』という映画にもなっている。これがまた何度もテレビで放送されているものだから、「あの中国系の人たちも何かヤバい仕事をさせられているんじゃないか」という噂が広まる一方で、十代のガキどもが当該住宅の前庭の塀に落書きを始めた。
「チンク(東洋人に対する差別的な蔑称)は帰れ」
「KKKが君たちをウォッチしている」
つくづく感心してしまうのは、貧民街のティーンたちが使うレイシズム用語は、わたしが英国に来た1996年からちっとも変わらないということだ。時は流れ、テクノロジーも進歩して、公衆電話ボックスからスマホの時代へと移り変われば、同じ年頃の若者でも思いつく文句がもう少し変わってきてもよさそうなものなのに、レイシズムというものは同じ言葉で再生産されていくものなんだなあ、と思っていると、それに猛然と反旗を翻すおっさんが出てきた。
「中国人たちの家に向かって、石や煉瓦を投げ始めたガキがいる。この辺に住んでいる人間として、黙っているわけにはいかん」
パブでそう言って立ち上がったのは、スティーヴだった。この公営住宅地で生まれ育った彼は、この辺のことなら何でも知っている。うちの庭に立っている巨大な樹木が、昔は地域の人々の里程標がわりに使われていたことや、石灰質でどんな植物でも育つわけではない貧民街の地質の形成の経緯など、何年も失業保険で生きていた時期に暇を持て余してコミュニティーの歴史を勉強したことがあったらしく、この界隈に関してだけは膨大な知識を持っている。
英国の労働者階級のおっさんにはこういう人が多い。単なるガラの悪いおやじかと思っていると、実はやけにオタクな一面を持っていて、何か一つのことに関して無駄なほど豊富な知識を備えた人たちがいる。実はこのあたり、サッチャー政権からブラウン政権ぐらいまではわりと楽に失業保険や生活保護が受給できたので、労働者階級の街には仕事をしないでぶらぶらしている人がけっこういた、という事実が、思わぬところで豊かに実を結んでいるのである。
で、その失業保険の果実の一つであるところの、わが街の「界隈師研究者」スティーヴは言った。
「俺はこれまで様々なティーンの排外主義を見て来た。雑貨屋のインド人の大将が刺されたり、中華料理屋のガラスが何度も打ち割られていたこともあった。だが、それは過去の話になった、と思っていた。地域の中学校の校長ががんばっているおかげで、ここ2,3年、学校の評価も上昇している。これは地域の大人たちが学校と力を合わせ、こんなクソみたいな時代だからこそ地域の治安を守ろうと努力してきたからだろう? それなのに、また昔の、雑貨屋の大将が刺されたぐらいの時代までコミュニティーを逆行させるような行為は許すわけにはいかない」
スティーヴはパブのカウンターから常連のおやじたちにそう呼びかけた。
「その通り」
と頷いたのは、中学生の双子の子どもを持つ近所のおっさんだ。
「俺もそう思う」
カウンターの脇に設置されたスクリーンでサッカーの試合を見ていたうちの連合いと隣家の息子、およびビリヤードに興じていた常連のおっさんたちもスティーヴに賛同した。
「でも、どうやってガキどもの悪さを止めるんだ?」
と質問され、スティーヴは自らの案を語り始めた。彼の案では、ティーンがそういう悪さをし始めるのは暗くなった時間帯であり、だいたい夕食後の午後8時以降とかだ。だから、その時間帯に見回りを始め、「ごっついおっさんたちがパトロールしているぞ」ということを吹聴して回れば、こんなことしているのは界隈のローティーンに決まっているのだから、恐れをなして悪さをしなくなる、ということだった。
ごっついおっさん、という外見に最もあてはまるのが実はスティーヴ本人だった。スキンヘッドで眼光鋭い長身のスティーヴは、マッドネスのファンだった過去を持ち、たぶんその頃から35年以上、基本的に全然ファッションが変わってないんじゃないかなと思うような中途半端な丈で折り返した細いジーンズをはき、足元はあくまでドクターマーチンのブーツ。冬でも半そでのTシャツ1枚で、この頃では目にすることもなくなった臙脂色のボンバー・ジャケットを羽織っている。
彼はむかし勤めていた工場の跡地にできた大型スーパーで働いていりので、仕事の行き帰りに会うときはスーパーの制服姿だが、それ以外のときにはいつも判で押したように同じ格好をしていた。一途、というか頑固な人柄なのだった。
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『ワイルドサイドをほっつき歩け』1