図書館に予約していた『李良枝セレクション』という本を、待つこと3ヶ月ほどでゲットしたのです。
本の表紙に著者・李良枝、解説者・温又柔という名前が見られるが・・・韓国と台湾にルーツを持つお二人に、大使のツボが疼くわけです。
【李良枝セレクション】
温又柔×李良枝著、白水社、2022年刊
<出版社>より
日本と韓国ー二つの「母国」の間で揺れ惑う個人の苦悩と葛藤を文学に昇華した作家が未来に託した小説とエッセイ。巻末に年譜を収録。
<読む前の大使寸評>
本の表紙に著者・李良枝、解説者・温又柔という名前が見られるが・・・韓国、台湾にルーツを持つお二人に、大使のツボが疼くわけです。
<図書館予約:(12/01予約、副本1、予約1)>
rakuten李良枝セレクション |
編・解説者でもある温又柔さんが李良枝を語っているので、見てみましょう
p413~417
<解説 切実な世界性を帯びた李良枝の文学>
二十三歳のとき、一篇の小説が、わたしに自信を与えた。日本語はあなたのものでもある、とその小説は教えてくれた。
日本語は、わたしのものでもある。
そう断じる勇気を得たおかげでわたしは、自分を取り囲む世界の輪郭や細部が、以前とはまるで違って見えるのを確かに感じていた。そして、小説を書いてみたい、本を書く人になりたい、という幼い頃からずっと淡く抱いてきたあこがれが、ほんものの野心へとみるみる変容していった。
その一篇の小説とは、李良枝の「由熙」である。
当時のわたしにとって、李良枝の文学と巡り合えたことは、とてつもなく大きなことだった。そのため、李良枝という作家について本格的に論じる前に、まずわたし自身について少々詳しく述べることを許して欲しい。
書くことに限定すれば、日本語は、わたしにとって、たった一つの、自在に操ることが可能な言語である。わたしは日本人ではない。しかし、あたかも、それだけが「生まれながらの自分のことば」であるかのように、日々、日本語を書いていた。
わたしは、ほとんど無意識のうちに、日本語でものを書くのであれば、日本人のように書かなければならないと思っていた。わたしは得体の知れない何かに対して、知らず知らずのうちに遠慮していた。日本語は日本人のものであり、わたしのものでは決してないのだ、と。
ところが「由熙」を読んだことによってわたしは、日本人として生まれなくても、日本語の中で堂々と生きていいのだと知った。それは、日本語ということばに対して、日本人ではない自分が過剰に礼儀正しく振る舞わなくてもいい、という気づきとも繋がっていた。さらに、この気づきによって、それまでは日本語では救いあげることなど到底できないと思いこんでいた領域をも射程に入れて、小説を書いてみたいと夢想するようにもなった。書き上げることができたら「好去好来歌」と題するつもりで、その小説を書く日々が始まった。
わたしは、自分が進もうとしている道はきっと正しいはずだと祈りにも似た気持ちで、繰り返しくり返し、李良枝を読んだ。自分自身の小説を模索しながら、「由熙」に至るまでの李良枝が歩んできた道筋を、何度も辿り直していたのだ。
*
田中淑枝(たなかよしえ)。
李良枝の「本名」である。正確には、戸籍上の姓名だ。普段は「淑枝」ではなく「良枝」の字を使っていたという。1940年に済州島から渡日した良枝の父親は「李」ではなく「田中」と名乗って日本での生活を切り開く。この「田中」という姓が、富士山麓に居を定めた一家が日本に帰化する際の戸籍名となった。
父母の意志による帰化をめぐって、のちに作家となった彼女は自筆年譜に「私は未成年で、自動的に日本国籍を持つことになったが、冬至十六歳だった長兄が日本帰化に反対していたことを、二十歳を過ぎて知ることになる」と書く。
典型的な田舎町で生まれ、近所には韓国人が一人も住んでいない環境の中で、日本式の生活になじみ、日本人としての教育を受けて田中淑枝(良枝)として生きてきた。両親はめったに韓国語を使わないし、キムチも食べなかった。韓国語を話す親戚とたまに会えば、「文化が遅れている」とか「野蛮だ」と感じるほどだった。
高校一年の夏、戸籍謄本を見て、はっきりと自分が朝鮮人であることを知る。初めこそ、その出自を「しじゅう隠そう隠そうとする意識と、違う違うと首を振っている自分が、心の底でうごめいていた」が、ある日、チョゴリを纏った朝鮮高校の女性とたちが堂々と朝鮮語を喋る姿に胸を打たれて、「日本と朝鮮の歴史」について熱心に学び始める。その学びは、朝鮮人である父母の来歴や出自を否定的なものとして切り捨てたかった自分の思考が、日本の歴史や社会の中でどんなふうに形成されたのかを知ることとも直結していた。
二十歳になり母国語を習い始めると、「自分の名前をイ・ヤンジと読むことを知った」。そして、その時期に、田中淑枝だった「それ以前の私」に別れを告げるかのように、「在日朝鮮人の一女性として」李良枝を名乗ることを決意する。
同じ頃、韓国の琴、伽耶琴と韓国舞踏も習い始めている。十五歳の時から日本舞踊と日本の琴を習い「招来は琴のお師匠さんになるのが夢だった」ほどの李良枝にとって、伽耶琴との出会いは「言葉で表現できないくらい」の出来事だったという。それぐらい「自分の国にも琴があること」は新鮮な驚きだったのだ。
五年後、二十五歳になった李良枝は韓国をついに訪れる。民主主義を求める学生と市民のデモが行われている光州事件のさなかだった。初めて訪れた母国で李良枝は、伽耶琴の独奏やパンソリ(語り歌)の弾き語りを本格的に習い始め、また、土俗的な坐俗舞踏に出会って衝撃を受けるのだ。チマチョゴリを着て音の中でただ踊れば、韓国語も日本語も忘れられる。「踊っている時だけが、二つの言語の間でうずくまっている自分を起きあがらせることができた」とのちに李良枝は当時について振り返る。そしてこの時期に、韓国滞在中だった作家・中上健次と李良枝は巡り合う。『輪舞する、ソウル』で中上健次は、作家になる前夜の李良枝との出会いを記している。
(中略)
その後、主に東京で暮らしながら「かずきめ」「あにごぜ」の二篇を描いたのち、1984年の㋂、李良枝はふたたび韓国にその拠点を移す。次兄の死によってやむを得ず休学していたソウル大学国語国文学科に復学することを決意したのだ。ソウルに舞い戻った李良枝は、「まるで韓国語の海にもひとしい国文学科での留学生活を通じて、人間にとっての言語、言い換えるなら人間における母国語と、さらに母語とは何だろうかという問題を、自分自身の存在つまり実存の問題と直結する深刻な問題と考え」るようになる。ちなみに在日同胞(在日韓国人)としてソウル大学国語国文学科で卒業を果たした最初の一人は李良枝だったという。
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奇しくも22日の朝日新聞「時代の栞」シリーズが「由熙」を取り上げています。
(時代の栞)「由熙」1989年刊・李良枝
李良枝の妹・栄さんと、温又柔さん