図書館で『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』という本を、手にしたのです。
終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。
【秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争】
井上祐子著、みずき書林、2018年刊
<「BOOK」データベース>より
戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのかー。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介。陸軍参謀本部傘下の写真工房“東方社”の実像に迫るとともに、当時の日本・中国・東南アジア各国の変動していく社会をとらえる。
<読む前の大使寸評>
終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。
rakuten秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争
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「はじめに」で東方社とか宣伝誌『FRONT』が紹介されているので、見てみましょう。
p6~8
<東方社と「東方社コレクション」>
■東方社とは
東方社とは、陸軍参謀本部傘下の特殊機関として、主に対外向けの写真宣伝物を制作していた団体である。同社は1941年春に設立されたが、設立のきっかけはその2年ほど前にさかのぼる。
当時陸軍は、張鼓峰やノモンハンにおいて、ソ連との紛争に敗北していた。そのため参謀本部第二部第五課(ロシア課)と第八課(情報・宣伝・謀略)では、ソ連への宣伝・謀略の強化によって日本の威信を回復することを考え、ソ連の国家宣伝のためのグラフ雑誌『USSR in Construction(ソ連邦の建設)』に対抗しうるような雑誌の制作を、後に東方社の初代理事長となる岡田桑三にもちかける。
岡田は映画俳優でもあったが、映画や演劇だけでなく、写真や写真宣伝物に対しても造詣が深く、当時、国際報道写真協会の同人であった。国際報道写真協会は、写真家木村伊兵衛、グラフィックデザイナー原弘、美術評論家伊奈信男らが運営していた中央工房に併設された対外写真配信機関であり、ここを拠点に彼らはソ連やドイツなど海外の雑誌や宣伝物に学びながら、写真宣伝物の研究を進め、実績も積んでいた。
東方社は、この中央工房・国際報道写真協会を軸に、評論家の林達夫、民族学者の岡正雄・岩村忍などが加わって設立された。(中略)
当初の運営資金は三井や三菱など財閥からの寄付に仰いだ。陸軍参謀本部の音頭取りで作られた東方社は、資材は陸軍から支給され、制作品もすべて陸軍が買上げるという陸軍と深く結び着いた団体であったが、あくまでも民間会社で、前述のように参謀本部の特殊機関という位置づけであった。気鋭の知識人やクリエーターたちが集まって、対外宣伝物という一種の“軍需品”を参謀本部の下で制作していた、特殊な民間写真工房だったといえば、少しわかりやすくなるだろうか。
(中略)
1941年5月に作成された設立趣意書によれば、東方社は『東亜建設』という一冊一テーマの月刊グラフ雑誌の刊行を業務の中心に据えていた。同誌が予定していたテーマには、「産業戦士」、「高等専門教育」、「駐日留学生」、「働く日本女性」などがあり、「日本海軍」、「日本陸軍」もあったものの、必ずしも軍事宣伝を優先したものではなかった。しかし、世界情勢が変転する中で、その性質を変えざるを得なくなっていく。
つまり、40年9月に日独伊三国同盟が結ばれ、41年4月に日ソ中立条約が結ばれる一方で、同年6月に独ソ戦が始まり、日本政府・軍部は南進に舵を切り、対米英戦争が必至となった。そのためにソ連を主たる対象とした国家宣伝誌『東亜建設』は、中国や東南アジアを主たる対象とした軍事宣伝誌『FRONT』へと切り替えられることとなったのである。
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『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』2:占領初期の華北地方
『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』1:占領初期のマラヤ・シンガポール