図書館で『K氏の大阪弁ブンガク論』という本を、手にしたのです。
K氏の説く大阪弁ブンガク論とあれば・・・あだやおろそかにはできんなあ♪
【K氏の大阪弁ブンガク論】
江弘毅著、ミシマ社、2018年刊
<「BOOK」データベース>より
国民的作家から現代の人気作家まで縦横無尽!長年街場を見つめてきた著者がボケてつっこむ!唯一無二のブンガク論。
【目次】ブンガク論に入る前に、ちょっと地元のこと。K氏の場合。/日本ブンガクを席巻する関西弁の技法/黒川博行ブンガクを支える「口語」表現/『細雪』-大阪弁が現代文で書かれるようになった時代/『細雪』はグルメ小説や!/大阪語・標準語の書き分けによるブンガク性/ほか
<読む前の大使寸評>
K氏の説く大阪弁ブンガク論とあれば・・・あだやおろそかにはできんなあ♪
rakutenK氏の大阪弁ブンガク論
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序章から多様な関西弁を、見てみましょう。
p17~20
<正しい言葉などない>
先生も地元出身ばかりで、国語の先生は宮沢賢治の詩を泉州弁で朗読していたし、英語の先生は大阪流イントネーション英語で、テープレコーダーの英語とは全然違っていた。
そこで教育の際に使われるセンセの話し言葉は「教育目的の制度化された標準(共通)語」ではない。そんなコトバによる授業を前提として学んだことは、「正しい言葉などといったものはない」ということであり、日常の実生活においての「それぞれの言葉」は違うということだ。
K氏は「動物園みたいだった」中学校で、無意識のうちに言語の多様性を見つめる土壌を体得したと思っている。
実際に大阪弁(関西方言というのが正しいのだろう)は、ミナミで河内弁と泉州弁がどちらも聞こえてきたり、同じミナミでも心斎橋筋のデパートや洋服屋で話される言葉と黒門市場の魚屋で話される言葉は違う。言葉は地域や職業、社会的属性によって違うという、至極当然の事実を身体でわかるということだ。
「こちらの理解のほうが、全然グローバルやないか」「なにが英語を話せて国際競争を勝ち抜ける人材や」などとK氏は苦々しく思うのだ。
中学生のK氏たちは、本気の怒突き合いをずいぶんやったが、「一人勝ち、勝ち逃げ。親の総取りはあかん」という掟がルールとして徹底していたし、困っているものをもっと困らせてやろうというようなガキには、誰かが「それはやめといたれ」という土地柄だった。
子どもの頃から誰もが似かよったやりかたでセコく「勝ち抜く」ことばかり考えていて、のっぺりと画一なビジネスマン言葉を話す大人に育つ社会は「気色悪いな」、とK氏はその頃からすでに思っていた。
てんでばらばらな背景を持ち、想像も共感も絶する「他者」に、自分の言葉で意思伝達したりする際の「俳味」とでも言うべき「おもろさ」。それがK氏にとってのコミュニケーションの基本であり、それこそが他人にフレンドリーな態度というものなのだろう。
<関西方言には「標準語」はない>
K氏が関西のエリア雑誌の編集をやっていた頃、大分県出身で大阪在住の編集者にこういう話を聞いたことがある。
大阪や京都の地元出身の人は、東京弁すなわち標準語を使う人は少ない。会社の編集会議も結婚式の挨拶もデパートの店員さんも関西弁だ。だからこちらも標準語を使わなくてもいいんだ、と思ってそのまま「せからしかぁ」などとつい大分弁を喋ってしまう。しかしながら、それでは「?」という顔をされる。
街場のコトバは難しいなあ、とK氏は思う。
関西方言には標準語のようなものはない。つまり京都人は京都弁、大阪はもっと多く、K氏ら岸和田の人間は岸和田弁、東大阪や八尾の人は河内弁を大阪市内で普通に喋っている。
「~しよう」「~しとう」という神戸~播州系の言語も梅田近辺ではしょっちゅう聞こえるし、「でんでんかまいませんよ」などと、「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になる和歌山弁を聴いたりすると、近しい泉州地方出身のK氏からすれば、思わずにやっとしてしまう。
とくにミナミの難波周辺にいると、近鉄、南海沿線からの人が集まっているので、「わいら」「しやけど」といった奈良~河内系、「おもしゃい」「ええわし」などの千秋弁は当たり前に耳にする。
K氏はこういった大阪系言語のさらに細かい地域性がわかるローカル的な理解が好きだ。どこかの評論家が「吉本芸人の話芸は河内や泉州の人間が噺家や漫才師になってから下品になった」みたいなことを書いているのを読んだ記憶があるが、K氏は「そら、ちゃうやろ」と思っている。むしろ落語家が「言うてはるのやおまへんか」などと妙な船場言葉を喋ったりしているのを聞くときに、「変に真似すなよ、逆にそれ田舎臭いど」と思ったりする。
これについてはさすが織田作之助、随筆なのにまことに小説的な味わいのする「大阪の可能性」という作品でドンピシャに書いている。
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この本も
関西人の話法に載せておこう♪