「内田樹の研究室」の内田先生が日々つづる言葉のなかで、自分にヒットするお言葉をホームページに残しておきます。
最近は池田香代子さんや、関さんや、雨宮さんなどの言葉も取り入れています。
(池田香代子さんは☆で、関さんは△で、雨宮さんは○で、池田信夫さんは▲、高野さんは■で、金子先生は★、田原さんは#、湯浅さんは〇、印鑰さんは@、櫻井さんは*、西加奈子さんは♪で区別します)
・『本の本』あとがき
・「宗教の本領」とは何か?
・『街場の米中論』を読んで
・月刊日本インタビュー「ウクライナとパレスチナ」
・高校生に言いたかったこと
・宮﨑駿『君たちはどう生きるか』を観て
・平川克美『「答えは出さない」という見識』(夜間飛行)書評
・「怪物」公式パンフレット解説
・白井さんと話したこと
・3.11から学ぶこと
・韓国の地方移住者たちに話したこと
・生産性の高い社会のゆくすえ
・ウクライナ危機と反抗
・「生きづらさについて考える」単行本あとがき
・「街場の米中論」まえがき
・図書館の戦い
・村上文学の意義について
・統一教会、安倍国葬について他
・安倍政治を総括する
・選挙と公約
・無作法と批評性
・徒然草 訳者あとがき
・勇気について
・病と癒しの物語『鬼滅の刃』の構造分析
・「アウトサイダー」についての個人的な思い出とささやかな感想
・コロナ後の世界
・格差について
・『コロナ後の世界』まえがき
・紀伊田辺聖地巡礼の旅
・成長と統治コスト
・『日本習合論』中国語版序文
・日本のイデオクラシー
・後手に回る政治
・倉吉の汽水空港でこんな話をした。
(目次全文は
ここ)
(その64):「『本の本』あとがき」を追記
2024-02-08 『本の本』あとがきより
この本は出版危機と電子書籍をめぐる話から始まって、図書館の話、学校教育の話で終わります。そして、ご一読して頂ければわかったと思いますが、僕の本についての考え方は、かなり変わっています。
僕は「本を買う人」と「本を読む人」を分別して、用事があるのは「本を読む人」であると断言しておりますが、こういう立場を公言する人は、たぶん日本の職業的な物書きの中にはほとんどいないと思います。韓国ではどうなんでしょう。たぶん事情はそれほど変わらないと思います。
僕は中学生の時にSFの同人誌をガリ版刷りして出版した時から一貫して、道行く人の袖を引いて「お願い、読んで」と懇請するという姿勢を通してきました。大学生の時は、政治的なアジビラやパンフレットをやはりガリ版刷りで作ってキャンパスで配布していました。学者になった後も、最初の頃の著作はどれも自費出版です。
僕の場合、「市場のニーズ」がものを書く動機になったことはありません。だって、僕の書くものについての「ニーズ」なんてないんですから。誰も「書いてくれ」とは言ってくれない。でも、こちらにはどうしても言いたいことがある。だから、自分で書いて、刷って、配る。それが僕の基本姿勢です。
ですから、僕はこれまでずっと市場原理とは原理的には無縁でした。
市場原理に従うならば、「こういうものを読みたい」と思っている読者の需要がまずあって、それに見合うような商品が供給されるという図式になります。
でも、僕はそんなのは「嘘」だと思います。
いや、嘘というのは言い過ぎでした。たしかに、出版にはそういう需給関係という側面もあるかも知れない。
でも、本が書かれる前に、その内容を先取りして、「こういうものが読みたい」と思う読者の側の潜在的需要なんてほんとうにあるんでしょうか。
僕は「ない」と思う。
そうではなくて、まず本が書かれて、それを読んだ読者が「こういうものが読みたかったんだよ!」と歓声を上げるというのがほんとうの順序なのではないでしょうか。
そして、もちろん「こういうものが読みたかった」という読者のリアクションは読んだ後に読者自身が作った「物語」です。自分がひさしく求めていた「読みたいもの」の条件をぴたりと満たす書物についに出会った...という「物語」ほど僕たちを高揚させるものはありませんからね。僕たちは本に出合った後に、「その本を久しく待望していた私」というものを造形するのです。事後における記憶の改造をしているんです。
もちろん、あわてて言い添えますけれど、それはぜんぜん悪いことじゃないんですよ。人間はそうやって記憶を書き換えながら生きてゆく生き物なんですから、それでいいんです。
|
2024-01-19 朴先生からのご質問に答えるシリーズ 「宗教の本領」とは何か?より
もちろん、スーパーマンだって「アイデンティティーの危機」には遭遇します。例えば、スーパーマンが活躍して悪人と戦うとき、巻き添えで市民が傷ついたりすることがあります。すると、その犠牲者の家族が「スーパーマンのバカ野郎。この人殺し」と罵ったりすることがある。つねに歓呼の声に迎えられることになれているスーパーマンは、その言葉に深く傷つき、アイデンティティーの危機を迎えて、鬱状態になります。でも、何かのはずみで再びヒーローとして活躍する機会に恵まれ、市民たちから「ありがとう」と感謝の言葉を浴びると、鬱から癒されて、もとのスーパーヒーローに戻る・・・こういう物語を僕たちは飽きるほど見せられてきました。
アメリカの「ヒーローもの」物語のパターンはすべて同じです。「ほんとうの自分に出会うと人間のパフォーマンスは爆発的に向上し、アイデンティティーが揺らぐと無力になる」。そういう話です。「別人になる」という解はないんです。
ときどき、鬱状態のヒーロー(ウルヴァリンとかランボーとか)が山の中とか外国のスラムとかに「隠棲」するというエピソードはありますけれども、それは「別人」になっているわけではなく、一時的に「偽名」を使っているだけで、そのうちに誰かが探しに来て、困難なミッションを託されて、再びヒーロー復活・・・という展開になるのです。必ず。
欧米型ヒーロー物語は「ほんとうの自分の発見」、ほとんどそれだけを中心に展開します。
でも、これまでの東アジア文化圏では、「ほんとうの自分の発見」ということはほとんど問題になったことがありません。さすがに今では欧米の影響で、そういう考え方をする人が増えてきましたけれども、これはせいぜい20世紀後半からの話です。
修行というのは、「連続的な自己刷新」のことですから、「ほんとうの自分」なんていうものはどこにもありません。昨日の自分と今日の自分は「もう別人」であるというのが修行のかんどころです。
教育論でもよく僕は「呉下の阿蒙」の話や、「名人伝」の紀昌の話を引きますけれど、どちらも「長い努力の末、昔の自分とは似ても似つかぬものになった人」の話です。それが東アジアでは「人格陶冶の正しい道」とみなされてきました。何よりたいせつなのは「今の自分」に居着かないことです。だとしたら「アイデンティティー」が問題になることはあり得ません。
修行は東アジアに固有の「自己陶冶」のあり方です。僕は武道修行を通じて、それを実践してきました。
釈先生は僕の武道に向かう態度やあるいはレヴィナス先生に仕える「弟子」の作法を見て、そこに「仏道修行に通じるもの」を感じて、「宗教の本領」という言葉を口にされたのではないかと思います。こんな説明でご理解頂けたでしょうか。
|
2023-12-29 「『街場の米中論』を読んで」より
「カウボーイ」が存在したのは、1865年~1890年までの僅か約25年のことで、しかも最下層労働者である「カウボーイ」は、黒人やインディアン、中国人と雑多な人種から形成されていたという事実である。そんな、我々が西部劇で見るような風景と、実際とが全然違うはずなのに、アメリカ人は、カウボーイを「アメリカ的男性のロールモデル」に仕立て上げ、アメリカ人の無意識的な欲望を盛り込まれた幻想的なアイコンになった。
アメリカにおける「カントリーミュージック」の由来は、遅れてきた移民に由来する。彼らには、居住する場所が残されておらず、主にアパラチア山脈の麓に住み始めた。彼らは、「ヒルビリー」という蔑称で呼ばれていた。アメリカには、「レッドネック」、「ヒルビリー」、「オウキー」など特定の白人に対する多くの蔑称が存在する。なかでも「ヒルビリー」については、その情報があまりに少ないせいで、ネガティブな情報だけが独り歩きした。暴力的で大酒呑み。あるいは、閉じられたコミュニティの中でしか生きていけず、近親相〇を繰り返しているなど。これら、蔑称の総称が「ホワイト・トラッシュ」である。
当時、「ホワイト・トラッシュ」に関する映画を調べていたところ、映画評論家の町山智浩の推薦する「脱出」という作品を観た。いわゆるホラー映画ではないが、久しぶりに怖い映画を観た。ストーリーは、男4人組が、カヌーで渓流下りを楽しむために、山深い町で出会うハプニングといったところだろうか。この作品は、山にひっそりと暮らしている「ヒルビリー」に出会ったことから始まる悲劇を描いているといってもいいだろう。
そして、「クライモリ」である。題名は、何となく知っていたのだが、先日WOWWOWで放送されていているのを観た。なんとも怖い映画だった。見終わったあと調べてみると、ウィキペディアには、「ヒルビリーホラー復活のきっかけを作った作品」で、「シリーズ化され、6作目まで制作された。」そうである。
アメリカ人は、「ホワイト・トラッシュ」への自責の念からか、どこかで恐怖を覚えている。
「ガース・ブルックス」の登場は、1989年である。1989年といえば、ベルリンの壁が崩壊し、12月3日のマルタ会談で冷戦の終結が宣言され、アメリカは「冷戦後」に突入する。そんなときに必要だったのは、「あるべきアメリカの姿」だったのではないだろうか。そんな「あるべき姿」として、自分たちが蔑んできた「ホワイト・トラッシュ」への差別を一回捻ったうえで、「カントリーミュージック」に託したのではないだろうか。
|
以降の全文は
内田先生かく語りき62による。