丸谷才一さんといえば旧仮名遣いで知られているが、蘊蓄に富んだ「話の種」がまたええわけで・・・
以下のとおり復刻して読んでみようと思い立ったのです。
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図書館で『猫のつもりが虎』という本を手にしたのです。
パラパラとめくったら・・・和田誠さんの挿絵とコラボした構成が絵本のようで、ええわけです♪
【猫のつもりが虎】
丸谷才一著、マガジンハウス、2004年刊
<「BOOK」データベース>より
ズボンとベルトの歴史的背景を論じ、スカートをはいた男の性的放縦に驚く。モスクワの冬のアイスクリームの甘さをうらやみ、テニスの“ラヴ”と“Love”の関係を研究し、そしてグレタ・ガルボの足の大きさについて語る。知的好奇心に溢れた「話の種」が満載。【目次】
ベルトの研究/男のスカート/冬のアイス・クリーム/絵を買ふ/提案三つ/批評の必要/驢馬の耳/ある日のこと/あの大阪の運転手/ガルボ伝説/故郷の味/四十八手/ポルトガルの米料理/歴史的抒情/夜中の喝采/エジプトの女王/日本デザイン論序説
<読む前の大使寸評>
パラパラとめくったら・・・和田誠さんの挿絵とコラボした構成が絵本のようで、ええわけです♪
rakuten猫のつもりが虎
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日本語論が興味深いので、見てみましょう。
p66~70
<ある日のこと>
夜ふけに発句が一つ浮かんだ。
日本語論花冷えの日も夜も
といふのである。673で字足らずだから、詞書で「破調」と断るか。
この句は実景実感である。肌寒い日だつたし、まあ概して日本語論づくめの一日だつた。まづ昼すぎ、国語学の大野晋さんからでんわがかかつて来た。用件がすむと、わたしは大野さんの新著『日本語はどこからきたのか』(ポプラ社)のお礼を言つた。
日本語がインドのタミル語と関係があるといふ大野さんの持論を述べたものだが、子供向きの本だからわかりやすいし、それに今までの本に書いていない最新の研究成果もはいつてゐて、非常におもしろかつたのだ。たとへば日本語の「忌む」imu,imiがタミル語の「火葬場」「墓地」の意のim,imaと対応するといふやうな。
「忌む」 はそれ自体、古代信仰の代表のやうな単語なのに、これまで語源が見つからなかつた。さらに、イとユは母音交替するから、「触れるのは畏れ多い、死の穢れにあるから触れてはならない」の意の「ゆゆし」、例の神事に使ふ「木綿」、イザナギが死の国へイザナミを追つて行つて、見るなと言はれたのに見ようとして櫛に火をともすあの「斎(ゆ)つ爪櫛」の「斎」などと親類筋に当るといふ。これは大変な新発見と言はなければならない。
とわたしが読後感を述べると、大野さんはいろいろ解説してくれてから、ほかにもう一つ大事な単語の語源が見つかつたのだと自慢する。
「話す」 である。
「話す」 は「放す」ぢやないかといふのは本居宣長の説だが、どうもピンと来ない。ところがタミル語にpannuといふのがあつて、これは「相談する、詳しく説明する、相談を受けて教える」とか「しゃべる、言ふ、宣言する」の意味なのださうである。殊に大事なのは、タミル人サンムガダス氏によると、この「パンヌ」に「大臣、貴人を相手にいろいろなことを言ふ」といふ意味があることだ。
「それに『話す』はあのころまで文献には出て来なかつたことばでね。どうしてか分からないけど。戦国のころ、不意に出て来るんですよ」
といふ大野さんの補足的な説明にわたしが目を丸くして感心すると、
「つまり曾呂利新左衛門のころ」
「さうさう」
「ふーむ。すると、日本語にはずつとあつたのに、『万葉集』でも『源氏物語』でも使われなかつた。ただし東国では日常会話に使はれてゐた…」
「かもしれないな」
午後は「週刊朝日」の『日本語相談』を書く。読者の質問に答へるのである。
「弁護士、会計士などは士なのに、調理師、理髪師などは師なのはなぜですか?」 といふのもおもしろいが、これは難問なので、
「『入試は水もの』と言ひますが、なぜ『水もの』なのですか?」といふ受験生の問に答へる。「水」には「川」といふ意味があるし、昔の川は大水になつたり、涸れたり、方向が変わつたり、お天気次第で気まぐれだつたのだ。つまり川のやうなものといふわけだ。もちろん昔は「入試は水もの」なんていわなかつた。「商売は水もの」と言つた。
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『猫のつもりが虎』4:興味深い日本語論p66~70
『猫のつもりが虎』3:クレオパトラの美貌p133~140
『猫のつもりが虎』2:相撲の「四十八手」p102~106
『猫のつもりが虎』1:冬のアイス・クリームp25~28