図書館で「航空戦史」という本を手にしたのです。
「航空戦から読み解く世界大戦史」ってか・・・
表紙に書かれたコピーに惹かれて、チョイスしたのです。
【航空戦史】
古峰文三著、イカロス出版、2020年刊
<「BOOK」データベース>より
20世紀の戦争を理解するために必要な視点は“空”にあった。空では勝利したはずのノモンハン事件で日本陸軍はなぜ敗北したのか?インパール作戦失敗の真の要因は「補給の軽視」ではなかった!「かくも少数」ではなかったバトル・オブ・ブリテンの英戦闘機隊。ノルマンディの空は連合軍のものではなかった!-新視点から語られる航空戦の真実。
<読む前の大使寸評>
「航空戦から読み解く世界大戦史」ってか・・・
表紙に書かれたコピーに惹かれて、チョイスしたのです。
rakuten航空戦史 |
まず紫電改のエピソードから、見てみましょう。
p165~167
<海軍最後の戦闘機隊「三四三空」>
■三四三空最初の実戦
3月18日早朝、源田司令は紫電改全機の発進を命じ、3個飛行隊合計72機が松山基地を飛び立った。この時点で紫電改を完全に装備していたのは戦闘三〇一のみで、戦闘七〇一、戦闘四〇七にはまだ若干の紫電も含まれていた。
しかし18日の空襲は九州地区の基地に向けられ、四国南岸を哨戒していた三四三空は会敵することができず虚しく帰還したが、松山基地は主力の留守中に少数のF6Fによる写真偵察と地上攻撃を受けるという緊張した状態で翌19日を迎えた。
午前5時40分、偵察第四の彩雲3機が敵編隊の発見と接触のために発進した。1機は発動機不調のため発進できず、戦闘機隊の後から誘導任務で再発進することになる。午前5時には紫電改の搭乗員が集合して待機に入り、一足先に基地上空直衛任務の紫電8機が発進、発動機不調で離陸中止した1機を除き、7機の紫電が増槽を抱いて松山基地上空を哨戒し始めた。
敵編隊を彩雲と足摺岬の電探が捉えると全機発進が命じられ、合計54機の紫電改が飛行隊ごとに編隊離陸で発進した。三四三空といえば堂々たる編隊での一斉離陸が語り継がれ、その技量の高さの象徴となっているが、編隊離陸は技量の誇示ではない。基地上空で編隊を組む15分から20分の時間を節約して迅速に進撃に映る為に採用されたもので、零戦に比べて航続距離が短い紫電改には適切な運用ともいえる。
また紫電改各隊は戦闘三〇一が「新撰組」、戦闘七〇一が「維新隊」、戦闘四〇七が「天誅組」、彩雲隊は「奇兵隊」と自称し、三四三空全体は松山の剣山から「剣部隊」を名乗った。これらの詳しい命名時期と由来には諸説があるが3月には各愛称が出揃っていたようだ。
しかし気になるのは前日18日の全力出撃には72機が参加したのに対して、19日の出撃機は上空直衛で先発した紫電8機と遅れて離陸した紫電改を加えて63機前後に減少している点だ。前日に会敵せずといえども全力出撃を行った影響が出て稼働機が減少しているところに機材面での限界が垣間見える。
この日の空中戦の詳細を描く枚数は無いが、大規模な邀撃戦が行われた結果、三四三空は大戦果を挙げたと評価された。豊田副武連合艦隊司令長官からの感状は次のようにその功績を賞している。
「感状 昭和二十年三月十九日敵機動部隊艦上機ノ主力ヲ以テ内海西部ニ来襲スルヤ松山基地ニ邀撃シ機略ニ富ム戦闘指導ト尖鋭ナル戦闘実施トニ依り忽(たちまち)ニシテ敵機六十余機ヲ撃墜シ全軍ノ士気ヲ昂揚セルハソノ功績顕著ナリ仍ッテ茲(ここ)二感状ヲ授与ス」
最近の研究では実際の戦果は「六十余機」には程遠く、最大で十数機であることが判明しているが、全体として空襲による感染、基地の損害は重大だったものの、三四三空の空中戦については「勝利」と自覚されていたことがわかる。
本来なら各隊常用36機、合計108機が飛び立つべきところをその6割程度の規模の出撃となったものの、この日の戦闘は紫電改の集中運用に十分な手ごたえを感じさせるものだったことは間違いない。海軍部内で三四三空の名は一気に高まった。
しかし錬成半ばで実戦投入された三四三空も無傷ではなかった。
空中戦での損失は15機、紫電改搭乗員の戦死者は13人に及んだ。戦闘三〇一の菅野隊長機も撃墜され、菅野大尉は軽傷を負って落下傘降下している。加えて松山基地の在地機5機も空襲によって失われ、三四三空は機材22機(彩雲1機を含む)の完全損失、多数の被弾機と撃墜された彩雲1機と地上戦死者1人を含む貴重な搭乗員17人を失うという無視できない痛手を負った。
機材22機の損失の他に、被弾損傷機の中には修理不能機や修理可能であっても再度の実戦使用には耐えない機体が加わるため、この戦いで三四三空の実働兵力は軽く見積もっても半減してしまったのではないだろうか。
この初陣以降、終戦まで60機以上の出撃は一度も実施できていないのだ。
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ウーム 最新鋭の紫電改にしても、苦戦しているようですね。
たそがれの写真家さんのブログで海中から回収された紫電改をレポートしているので、見てみましょう。
宇和島からはるばる下り、高知県境にも近いその地で見たものは?より
1978年11月、愛媛県南宇和郡城辺町(現・南宇和郡愛南町)久良湾の海底で1機の紫電改が発見され、翌1979年7月に引き揚げられた。この機体は、1945年7月24日に約200機のアメリカ軍を迎え撃つために発進した、日本軍約20機のうちの1機である。
着水した機体としては機首部分を除き損傷のない状態で発見されているので、パイロットは戦闘中に機体の不調によって着水を決意し、波の静かな久良湾に見事な操縦で着水を成功させたものの、機体もろとも水没してしまったと推定される。 豊後水道上空で交戦した三四三航空隊の未帰還機6機の内の1機であり、戦闘301隊の所属機体とされる。
フットバーの位置が一番手前にあることから搭乗者の身長は低く、「空の宮本武蔵」と言われた武藤金義中尉(戦死後昇進)機もしくは米田伸也上飛曹機の可能性があるが決定的証拠はなく、特定には至っていない。武藤夫人は未帰還パイロット6名共通の遺品とすべきと述べている。引き上げ時、操縦席に遺骨はなかった。この紫電改が沈没した7月24日、附近の横島で20歳前後の日本軍搭乗員の遺体が回収されたが、関連性は不明である。
引き上げには不発弾を懸念する宿毛海上保安部から懸念が寄せられたが、当時は参議院議員となっていた源田実元大佐・343司令が各方面に交渉し、また愛媛県議会も回収予算捻出を決定したことで回収が可能となった。この機体は回収後に、遺族の意思により引き揚げ時の原型を維持する程度に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実機として愛南町にある南レク馬瀬山公園の紫電改展示館に保存・展示されている。
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