カテゴリ:政治経済
日本の裁判において、心神喪失者と過失犯に対する量刑が甘い傾向がある
のは、日本社会が伝統的に心神喪失者と心神過失者に対して大目に見る 宗教的背景があるからではないか? これは世界の常識からはかけ離れて いる事を指摘しないといけない。 イスラム教ではなぜ飲酒が禁止されているのか。仏教の戒律とは理由が全然 異なる。酒を飲む事によって理性が失われ、神に対する服従の心を喪失する 事があるから、酒は飲んではいけないのだ。同様の考え方は、中国の儒教にも キリスト教のプロテスタントにもある。酒はいくら飲んでも良いが公衆の 面前で酔っている所を見られるのは「恥」だという文化がある。 私は酒が弱く、すぐに顔に出る。このため外資系商社に勤務していた折には 「酔っているのを見られないようにしろ」と先輩に注意されたものだった。 日本では、酒は酔うためにある。宴会でまだ回っていないヤツがいたら杯を 勧めたりする。かかる風潮・文化を改める必要があるのではないか。 また心神喪失者に対しては、キリスト教・ユダヤ教的には「神に罰せられる であろう人」と厳しく見、その人格を否定する傾向があるのに対し、 万物に神が宿ると考える日本では、「悪いモノが憑依した人」と見て、心身喪失 状態にあった人も憑依したモノが離れてしまえば、普通の人なのだ、と 考え、その人格を否定しない傾向がある。 これは法律の問題というより宗教観の違いではなかろうか。 宗教観が違えば、心神喪失犯も過失犯も故意犯と同じとみなす事も可能だ。 イスラム法学的には、心神喪失犯には故意犯より重い罪を与えねばならない のだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[政治経済] カテゴリの最新記事
|
|