カテゴリ:歴史あれこれ
「薄井」は臼井館の跡 秋田県横手市雄物川町薄井という地がある。 菅江真澄は雪の出羽路で「薄井」を次のように記している。 『薄井村 山本の郡に同名がある。姓にも臼井あり、また信濃の国に臼氷がある。この村の薄井は、古くは臼井と書いた。枝村の舟沼という処に古館の跡がある。 いつの世の誰の城主跡かは分からないが、その地を臼井殿の跡と言い伝えられる。』 山本郡の薄井村とは秋田県能代市二ツ井町薄井のことである。 明治9年(1876年)に薄井村と比井野村が合併、両村の井の字をとって二ツ井村とした。明治35年に町制を施行し二ツ井町となった。(二ツ井町観光協会・二ツ井町の紹介を参考) 信濃の国に臼氷とは、群馬県と長野県の県境にある碓氷峠(うすいとうげ)のことである。 常陸太田市大森字薄井に薄井館という旧跡がある。 この館は佐竹氏の家臣であった薄井玄蕃という人物の居館であったという。薄井氏は佐竹氏の秋田転封にも従って秋田の地に赴いたといい、その後に館は廃館になったと伝わる。 佐竹義宣が転封を命じられて秋田の土崎湊城に入城したのは慶長7年(1602年)で、菅江真澄が雪の出羽路平鹿郡を記したのは、それから200年以上経た文政7年( 1824年)のことである。 常陸太田市の薄井館と雄物川町薄井との関連が伺われなくもないが、戦国時代、横手盆地北部を勢力圏としていた戸沢氏が「臼井城」を戸沢属城としていたとの記録もあるので、年代的にも薄井館との関連性は薄いかもしれない。 薄井の人々と天保無縁塚 薄井に「天保無縁塚」がある。(写真) 横手市西部斎場の西に位置し、陸奥、出羽を襲った天保4年(1833年)の大飢饉で餓死した流浪者を地域の人たちが手厚く葬った場所である。 秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システムに次の記載がある。 『無縁塚の延命地蔵(むえんづかのえんめいじぞう) 天保4年の大飢饉で、南部・山形・仙台は米が皆無に実らなかった。いくらか秋田は実ったと聞きつけた人々が、秋田に救済を求めてきた。この人々を救う余裕などあるはずもなく、多くの人がこの地で息を引き取った。この人々を薄井集落の地蔵堂のそばに葬り、無縁塚と名付け新しい地蔵と地蔵堂を建て供養した。 地蔵様は延命地蔵と呼ばれ、病魔を払い長寿を全うさせてくれると、信仰されるようになった。』 餓死者の多くは山越えしてこの地に達した沢内村など西和賀地方(岩手県西和賀町)の人々だった。 西和賀町観光協会;あったか日記にそのことが記されている。 『天保無縁塚延命地蔵追善 江戸時代後期の天保年間、東北地方は長雨や低温などの異常気象に見舞われて凶作が続いた。 「沢内年代記」に「山に子を捨て、川に打ち込み、我身ばかり他領に逃れる者限りなし。泣き悲しむ声、山野にかまびすし。その死骸累々と道のちまたに満つはびこり、昔、治承・養和の飢饉、源平両家の合戦、元弘・建武の軍に死する人合わせて見るとても、これに増されり。恐しかりし事共なり」とあるように、その惨状は目を覆うばかりだった。 このため、西和賀地方の領民多数が「秋田に行けば米がある」という噂を頼りに峠を越え、流浪した。しかし、秋田でも食糧にはありつけず、次々に餓死した。田畑を捨て、家族散り散りになって逃れ、力尽きて生き倒れた南部流民の塚が、平鹿地方だけでも6ヶ所以上あるといわれている。 薄井村周辺だけでも113体もの流民の死骸があり、これをみかねた薄井村の人々が丁重に埋葬し、これを「天保無縁塚」と名付けて毎年供養しているそうである。』(概要を要約) 2012年7月24日、天保無縁塚で180回忌の追善供養が行われ、ゆかりのある岩手県西和賀町の住民も含め計約40人が参列した。 天保の飢饉の様子は「沢内年代記」に詳しい。 歴史・神話 | 杜父魚ブログ(高橋繁氏)から「沢内年代記」を紐解いてみたい。 歴史・神話 | 杜父魚ブログ「沢内年代記」を読み解く(二十六) 『天保四年の記録(抄) 【巣郷本の記録】 9月7日秋の土用入り、15日より稲を少し刈り取ったけれども作柄検査役の「御毛見」は来られず、久保弥市右エ門様がお出でになった。雪が一尺、(約30cm)ばかり降り積もった。不作で稲刈りが出来ないところにも、5歩、6歩(5、6%)の課税取立てがあった。この年に年貢を納めることができなかった者は来年の午年に取り立てるとのことであった。 12月より次の年、午年の7月まで死んでしまった牛馬は少しも捨てずに食べた。犬、猫を殺して食べる者が数人もいた。巳年(天保4年)の10月から次の年の7月までに飢え死にした人は幾何万人になるのか数限り知ることは出来ない。 親を捨て、子供は川に打ち込み、山に捨て、自分ばかりどこかへ行ってしまった者は数知れずという状態である。恐ろしい状況になったものである。 【下巾本の記録】 大根一背負い(10本から15本くらい)三百文(約7,500円)。大根の乾し葉は一連(一連は10葉から15葉ほど)二十五文(625円)から四十五文(1,125円)まであった。全体として食物は高値であった。したがって余裕のある百姓たちへお役人が見聞見回りし届けの上、雑穀、味噌を取り上げ、困窮者に配分した。しかしながら、飢え死にする者が多く、他所に行った者は数え切れない。 7月から11月まで雪が降らなかった。葛の根を掘り、根を煎って叩き、根の脹らみを煎って叩き、粉にして食べた。その他種々の木の実、栃、楢の実、木の葉、ガザの葉(アカザの葉か)、マロコノ葉(おおばこの葉か)、アザミ等おおよその草木は皆食料にした。その種類は限りないものである。ようやく命助かり年越しが出来た。 』 田村郷日記にみる天保の飢饉 当地に残る「田村郷日記・天保5年」でも、前年の飢饉の惨状を伺い知ることができる。 住民が相互に食糧を融通し合ったのはもちろんだが、藩からも御救い米や鰊、烏賊などを施して救済した記録が残っている。 また、餓死したり欠け落ち(よその土地へ逃げる)する者が多く、藩はその対応にも追われた。 その記録を田村郷日記から拾ってみた。(原文を現代文で表記) 糧品御渡し下され候覚(資料1) 一、刻み大根四十五貫五百二十五匁 一、干し葉十貫三百五十匁 働人三百四十一人 一日一人に付き二十匁つつ五日分 干し大根三十四貫百目 平人二百七人 一日一人に付き十匁つつ五日分 干し葉十貫三百五十匁 極窮人三百三十八人 一日一人に付き五匁つつ五日分 干し大根八貫四百二十五匁 右の通り日々渡されたい。以上。 四月十八日暮れ仰せ付けられた。 乞食体の者取り尋ねの事(資料2) 廻状を以て申し達す。然れば、乞食体の者が来た場合は取り尋ね、両郡のものなら、その出生地へ歩夫(人夫)を添えて送り帰し、もっともその訳を書付にして添え、早々に仕送ること。村々乞食等は出さず、宛行(あてがい)の分を与え、決して当人共を預かり置(かない)こと。 一、他郡のものなら、角間川まで歩夫を添えて仕送るように。右の通り心得違いない様に肝煎、長(おとな)百姓が厳に申し合わせ、相互に吟味して取り扱いすること。かくの如く仰せ渡しても、見逃しや等閑(なおざり)にして置くならば、その村方に厳しく無調法(ぶちょうほう・過失を咎める)を仰せ付けるので、この旨心得違いない様にしていただきたい。時々吟味の者も廻す。以上。 六月十四日 跡部惣兵衛 すぐに角間川へ遣わした。 死潰、欠け落ち調べ帳の件(資料3) 覚 一、先頃村々死潰(しがい・死骸)、欠け落ち調べ帳を指し出されたが、解り兼ねるので一通り返し置く。雛形書付にて申し渡す通り、早々死潰、欠け落ちを調べ直し、指し出すこと。先頃より度々申し遣わしたが、右調べを指し出すこと。いかの間違いあるや、早々に書き出し申し上げる。 十二月十三日 川又孝治 栗田主水 右村々肝煎殿 田村郷日記/天保5年・糧品御渡し下され候覚(資料1) ![]() 田村郷日記/天保5年・乞食体の者取り尋ねの事(資料2) ![]() 田村郷日記/天保5年・死潰、欠け落ち調べ帳の件(資料3) ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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