安倍晋三を孤立させるな
参院選で民進党・共産党が掲げたスローガンは憲法改正の中身そのものではなかった。自民党・改憲勢力に議席数の「3分の2」を取らせないという全く主義主張のない無内容で、なんとか議席数の減少を防ごうという敗北主義的なものだった。憲法改正という本当の争点を回避したのだ。本格的な争点にすれば、現在の憲法で中国、北朝鮮の軍事攻勢に対応できるか、できないとすれば、どうすればいいのか、という問題に踏み込まざるをえず、そこまで議論できる準備が整っていないことが明らかになってしまう。これは、旧・社会党の万年野党路線への全面後退と言っていい。つまり「当面自分が議員として国会で生き残れれば良い。国政をどうするか、政党としての責任などまるで考えていない」ということだ。では、自民党はどうなのか--。憲法改正を正面から見据え、国家を担う責任政党としての自覚を備えた議員がどの程度いたのか。というと、はなはだ心もとない。現に、憲法9条改正という具体的な国家像を提示せずに、争点化を回避した。アベノミクスという経済一本で選挙を戦った。それで勝利すると読み、事実、その通りになった。それで本当に良かったのか。国民も難しく、かつキナ臭い憲法9条論議に入り込みたくはない。入ろうとする議員を煙たがるだろう。だから、争点化を避けた方が選挙に勝てると読む自民党の議員は多く、安倍晋三総裁もやむを得ず争点化を避けたのではないか。しかし、国民は本当に、9条という争点を避けることを望んでいる(いた)のだろうか。とりわけ、選挙が終わってからの中国の尖閣領域での侵攻拡大を見ると、安保法案の充実化は喫緊の課題ではないか、と不安視する有権者は増えていると思える。安倍首相としては、憲法改正論議を表に出したい。だが、大方の自民党員、そして面倒な仕事を嫌う、戦う意思の希薄な外務省、防衛庁、法務省などの官僚が後ろからそれにブレーキをかけている。そんな構図が浮かび上がる。思えば、昨年来の特定秘密保護法、安保法制の制定、集団的自衛権の行使容認まで、ほとんど安倍総理が一人で最前線で発言し、議論をリードしてきた。一部を除いて、他の多くの自民党議員はそれを等閑視してきた。それどころか世論やアンケート調査で「安倍発言は危険だ」という声が強まると、黙るか、「安倍さんももう少しバランスを考えた方がいい」と安倍首相を批判する。逆に中国や北朝鮮の攻勢が強まり、アンケート調査で安倍支持派が増えると、「やはり集団的自衛権は必要」と言い出す。要するに、リスクの大きそうなことはすべて安倍に任せて自分は何もせず、風の吹く方向に動き、「勝てる安倍総裁に便乗」して国会議員としての地位を墨守する。そんな風見鶏が過半を占めている、というのが実態ではないか。これでは国会に居座る万年野党議員と少しも変わらない。安倍首相の苦労に心を配る文芸評論家の小川榮太郎氏は「正論」9月号の論文「なぜ憲法は争点たり得なかったのか--政党政治の堕落」で、次のように大方の自民党員を批判している。<内外激変の現代のような時代には、政治はあくまで大方針を追求する創造的な営みでなければ国は迷走します。……(長年野党が唱えた)9条や安保反対は守りには使えても、最早表に出して攻めにゆける武器ではなくなりつつある。(ならば、自民党もそこに安住せず)国民に伏在する戦後イデオロギー脱却の動向を先取り(すればいいのに)先取りどころかフォローしようともしなかった>その中で、安倍首相も前面に立って憲法改正に動けば、自民党内でも「孤立」してしまう。その恐れが安倍首相の行動を制約し、非核三原則の保持、靖国参拝の中止、防衛予算の拡大の阻止、遅疑逡巡を生んでいるのだろう。だが、中国、北朝鮮という「今そこにある危機」の前に情報を隠したり、自らの手足を縛るような情報を発信していてはいけない。安倍首相が危機を語れるように、自民党は安倍氏を背後から強力に援護しなければならない。孤立させてはならない。