さきほど見たミクシイの「特別支援教育」コミュニティの投稿と
一連の回答がとても勉強になったので、リンクします。
ミクシイ会員で「特別支援」関係の方はよかったらのぞいてみて、
こういった現象や考え方について自分なりに考察してみてはいかがでしょうか。
■名 前 : 特別支援教育
□トピック: 『難しさ』を抱えた子どもを、教師集団としてどう捉えるか?
■URL : http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37735687&comment_count
=9&comm_id=23124&mailmagazine=1
詳細内容はミクシイ会員以外にもおおっぴらにするのは問題があると思うので
ここでは伏せますが、自分の考えとして少し整理してみます。
私の場合、校内の特別支援学級の担任の絶対数が少ないということもあり
(全体の10分の1くらい)、
教師集団の中で「障害のある子」のとらえ方に差があることは
感じています。
それを不満に思うことも正直あるのですが、
通常学級担任の先生の中には経験自体が少なく、
障害のある子どもを理解する機会自体が少ない先生もいらっしゃることから、
しかたないのかな、と思うこともあります。
障害の重い子を担任したときに、
職員間での共通理解をもっとしてほしいと思うことはあります。
(というか、ずっと思っています。)
ただ、「その子のために」と思っていたのが、
いつのまにか「自分のために」にすりかわってしまうことがあります。
「わかってほしい」という要望をあまり前面に出すのは
かえって共感がえられないように感じています。
むしろ、「自分がしんどい」と思ってしまっている考え方から
一度脱却することができるといいのかな、と
今までのいろいろな経緯を通じて思いました。
校内よりも校外に出て特別支援学級担任ばかりが集まって子どもの話をした方が
お互いに分かり合えることが多く、話が盛り上がります。
そういう場で話をしたり聞いたりしながら、自分の気持ちを解放させて、
校内の先生方とは気持ちの余裕を持って接することができればと思って
最近はすごしています。
校内の先生方と子どもの話を相互にしあえることをめざすのは、
一種の「職場改革」にあたると思っています。
とっても重要なことですが、たぶんかなり時間がかかるのではないかなと見ています。
それも普段の自分の心がけ次第で、小さいことの積み重ねだな~と思っています。
「焦って失敗した」という経験が山ほどあるので、
「焦りは禁物」と自分に言い聞かせています。