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大好きイタリア!         バルセロナ,イスタンブール&軽井沢ご飯

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2018.02.06
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カテゴリ:静かな日常
[源氏物語の時代]




数年ぶりに引っ張り出してきて

寝る前のひとときに読んでいます。

藤原道長の姪である定子と

一条天皇の純愛です。

昨夜は、定子が24才の若さで亡くなる場面を

読みました。




一条天皇に残した3首のうたに

涙を誘われました。




自分の死を予感していたのですね。

産まれたばかりの我が子を

抱くことも叶わなかった……。




道長の姪とはいえ道長には彰子がおり

定子の存在は邪魔であったわけですし、

一条天皇の母は道長の姉。

彰子を応援していたようです。




定子の父は亡くなり、

兄の伊周も自滅。

定子は、桐壺の更衣と同じ境遇になってしまった

というわけです。

定子の父は、病んで伏せていてさえ

美しかったと言われています。

お酒を控えて、定子と孫のために

長生きして欲しかった。




道長の兄たちは

続々と流行り病などで亡くなってしまいました。

本来ならば、陰に隠れ続ける末の男子であったはず。

道長の強運には、驚くべきものがあります。

さらに娘の彰子は、

男子を産むことができました。




一条天皇は生涯定子を愛し続けたと思いますが

定子亡き後はその従姉妹である彰子を大切にし

彰子は87才まで長生きしたそうです。




本当に好きな女性とだけ一途にお付き合いをし、

けれど結婚相手には

天皇の血をつぐ女性を選んだ道長。

天皇に嫁がせるために娘の彰子を教育しました。

壮大な計画に沿って人生を組み立てたことが

わかります。


 

そして、定子が生んだ長男 敦康は

天皇になる事はありませんでした。

一条天皇は、自らが死の床にあっても

敦康を東宮にと願ったのにです。




天皇の第一皇子、母は中宮。

じっさい平安時代に

敦康以前にも以降にも

この条件を満たしながら東宮にならなかったケースは

ないそうです。

彰子でさえ敦康の立太子を望み

道長に直談判までしたと言うのに。




彰子は敦康を2歳に満たない頃から育て

夫の一条が自分に見向きもしてくれなかった頃

敦康と向き合って時を過ごしました。

我が子同然であったでしょうし

自分が産んだ皇子はまだ幼すぎて

長男 敦康のライバルにさえなれないのです。




道長の欲のみが、敦康擁立を退けたのでした。

長男 敦康の立太子を認めなかったのは

道長が、[外祖父摂政] になりたかったから。

彰子が産んだ皇子が天皇の位につくとしても

成人する前でなければならなかった。




そして、定子が残した敦康は、

失意のうちにわずか二十歳で亡くなったそうです。




定子の話に戻ります。

もし、定子が

たとえば私の年令まで生きていたら、

どんなオバサンになったのかな?

賢くて強くて、立派なオバサンになったことでしょう。
 
私たちだって

数えで24才の時は

あきれるほどに純粋で、柔らかに微笑む

大和撫子だったのですから。




でも、定子は数え年の24才で亡くなりました。

涙を誘われずにはいられません。

美しい魂が、こんなに早く召されてしまった。

幼子と最愛の夫から引き裂かれてしまった。




私が歴史上の人物で一番好きな女性は

中宮定子なのです。

そして一条天皇も、理想の夫です。




そして&だから

源氏物語よりも、枕草子の方が

好きなのです。







源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり 



そうそう、つけ足さなければ。
彰子は、父の道長に似ない良い人だったようです。
良い人っていう言い方は薄っぺらくて中身がないように響きますが
そうではなくて本当にその人柄が好ましい女性だったようです。
あくまでも、現在触れることのできる材料のみから導き出せることですが。
歴史は勝った者の都合で書き残されるものですから。
でも、彰子が本当の意味で  “良い人” であったと信じたいのです。





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最終更新日  2023.05.12 09:10:05
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