|
カテゴリ:歴史
実家から、日露戦争の兵士の葉書がいくつか出て来ました。 以前に紹介した明治の頃の親戚宛ての葉書、友人がその所属軍の戦歴を 調べてくれました。そこで手紙の箱を探したら、あと8通出て来ました。 読みにくい筆書きの文面をたどると、その戦歴に即した地名が出てきた ので、やはりこれは日露戦争に従軍した人からの便りでした。 慣れない筆跡のため私にはほとんど読めないのですが、なんとかわかる 範囲で並べてみて、ご紹介します。 宛先は私の母の父の父。当時は大豆問屋を商っており差出人は親戚か、 奉公人のようです。第四師団 歩兵弟八総隊 第五中隊 第二小隊の 所属とあります。( )内が葉書の内容です。 <第四師団 歩兵弟八総隊の戦歴> ・1904年の日露戦争の勃発に伴い、所属軍は明治37年5月に遼東半島に上陸。 ・各地での戦闘を経て8月に遼陽を占領。(10月2日付け葉書でそれを報告) ・明治37年10月10日より 沙河の対陣始まる。<注-1> (翌38年の年始挨拶状に沙河で露軍と対陣中との記述) ・明治38年3月1日に世界史上に残る大会戦・奉天の会戦が始まる。<注-2> (4月20日付け葉書で露之大軍撃破と報告/大山巌大将の絵葉書です) (6月15日付け葉書で日本海会戦でのロシア第二、第三艦隊全滅の祝い) この絵は筆者の直筆なのでしょうか?いい味出てます。 (11月27日付け葉書で友人の貫通傷の快癒の知らせ) (12月9日付け封書で米山丸で出航との通知。<注-3> 差出地は清国。宿営地から金州に移動し、船で凱旋の途についたとあります。) ・明治38年12月18日に船は大阪に凱旋!! なお、前回に差出人は貫通傷を受けたと書きましたが、よく読むと それは友人のことで、本人は大丈夫だったようです。。 ということで、この方はあの激戦をくぐり抜けて無事帰国されました。 国元の人たちははらはらしてこれらの便りを読んだことでしょう。 100年前の歴史に絡む親戚の日常をうかがわせるめずらしい文書でした。 このような記録、たまたま私の父の郵趣コレクションで残されていた のですが、我々が今使っている電子情報、これっていつまで残るので しょうか?私たちが生きた痕跡ってどんなかたちで残るのでしょうか? ちょっと考え込んでしまいました。 いや、そんな事より、こんな便りの来る時代なんてもう御免です。 ------------------------------------------------- <注-1> 沙河の対陣: 10月8日、ロシア陸軍が日本軍に反撃したことで始まった会戦。この戦い は冬が来て膠着状態に陥ったので、沙河(さか)の対陣と呼ばれます。 圧倒的に有利なロシアに対し、弾も物資も足りない日本軍は夜襲で応戦。 秋山好古の旅団が活躍します。 <注-2> 奉天の会戦:(1905年3月1日から3月10日) 満州の荒野で双方60万もの将兵が激闘を繰り広げ、世界史上で希に見る 大規模な会戦となりました。露軍が撤退したことで国内外では勝利した と認知されましたが、日本軍の消耗なはなはだしく、戦闘を続けられる 状態ではなかったそうです。 <注-3> 米山丸: なお、帰国の船名は米山丸。前年の旅順港閉鎖で沈められた船と同名 なのが気になります。広瀬中佐が戦死した第二回目の閉鎖作戦です。 たぶん同名の貨客船なのでしょうが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[歴史] カテゴリの最新記事
|