Try! Nature Watching! (since 2006.8.14)
< 新しい記事
新着記事一覧(全7493件)
過去の記事 >
昨日は新横浜からひかりに乗って、1時間7分で豊橋に着いた。昔は東京へ行くのに東海道線が電化される前、名古屋から汽車に乗って6時間くらいかかった憶えがある。トンネルに入る度に窓を閉めないと顔が真っ黒になった。それよりもずっと以前の話である。
昭和12年4月30日、孝三さんは第20回総選挙に愛知二区から最高点で初当選、終戦まで代議士を務めた。2.26事件の翌年で、日本が太平洋戦争へと傾いていった時期である。当時の内閣は第一次近衛文麿であった。
陸軍航空隊にいたころから、ひそかに政治の世界を目指していたという。「技術兵科は徴兵義務年限を五年にせよ」と陸軍大臣に上申書を出したところ「軍人は政治にかかわるべからず」と、上申書が中隊長のところへ戻ってきたことがある。このとき中隊長から「政治にかかわるなら代議士になれ。どうせお前なんかなれやせんがな」といわれ一念発起したのだという。昭和5年以来三回落選し、四度目の正直であった。
初登院のとき、孝三さんは名古屋港から自分でハンザ式水上機を操縦して羽田まで飛んだ。”飛行機代議士”とマスコミは大騒ぎ。1時間半はかかると予想されたが、高出力のエンジンにつけ替えていたので、55分で羽田に着いてしまった。取材しようとした新聞記者は間に合わず、またまた大騒ぎとなった。このあと「孝三さんは羽田から国会議事堂まで自転車で走った」という言い伝えがあるが、本人は「そんなことはない。あの時は確か自動車で行った」と否定する。汽車で行った愛知選出の別の議員と競走したというが、羽田から国会議事堂までの時間がかかって結局負けたという話である。
国会での活躍についてはあまり資料がないが、古瀬傳蔵文庫収蔵、農政研究第十九巻第五号の中に第七十五議会と農政問題と題して、食料確保と生産資材(安藤孝三)の記載がある。
孝三さんが国政の場で忙しくなると、飛行機研究所の運営は次兄繁三の長男、安藤梅幸さんが代行するようになった。梅幸さんは大正8年生まれ旧制県立半田中学を卒業した昭和12年春、研究所へ入り、11月に二等飛行操縦士、14年末一等飛行操縦士の資格を取っている。梅幸さんのことはまたあとで書こう。
昭和10年代も後半になると、太平洋戦争は激化し、訓練半ばで応召する練習生が目立ち始めた。研究所で訓練を受けたのは150人以上、うち約80人が飛行士の資格をとったが、孝三さんはこの三分の一が戦死しただろうという。
研究所出身者の中には、戦後初めて飛行二万時間を達成した野寺誠次郎、運輸省の事故調査官、航空評論家として知られる楢林寿一、女性パイロットの久岡(横山)秀子、大韓航空専務理事になった全明燮など戦後の民間航空に活躍した人々が多い。(この話は明日に続く)
昨日、新幹線の中で警察から電話がかかってきた。蒲郡に着くとパトカーが待っていた。警察署へ行き、早速検案、首吊りだが、5日くらい経っていて、腐敗がひどかった。病院へ戻り、検案書を作り、パトカーをタクシーがわりに使い、競艇場へ送ってもらう。昨日は私が主催する蒲郡愛艇クラブのコンペの日である。年に3~4回開いている。5レースを指定して、1レース1000円を限度に買い、誰が一番儲かるかというコンペである。
何と優勝はbokeabさんでした私はコンペで買ったのは全部はずれでした。一発逆転を狙って買うのでなかなか当たらないのです。でも番外で買った舟券で結局また2万円ほど儲かった。競艇へ行く度にお小遣いが増えていく終わってから、途中から来た競艇の師匠、河合さんと志な乃へ。
碧南レトロプリンスタンプラリー( ^)o(^ ) 2020年10月30日
梅雨とコロナでステイホーム(T_T) 2020年07月14日 コメント(2)
アベノマスクより早く着きました( ^)o(^ ) 2020年05月23日
もっと見る
PR
フリーページ
コメント新着
お気に入りブログ
キーワードサーチ
カテゴリ
プロフィール
ドクターT9323
わたしのブログへようこそ
カレンダー
バックナンバー