長浦海岸のタコの話が出たところで、もうひとつ思い出したのは観海流古式泳法です。私の小学校時代(1956年~1962年)には学校にプールはないし、もちろんスイミングスクールなどと言うハイカラなものもありませんでした。泳ぎを覚えるのは海か溜池で年長者の泳いでいるのを見て見様見真似で覚えるしかありませんでした。でも私の母は私に正式に泳ぎを習わせようと思ったのでしょう。毎年夏になると長浦の海岸で熱田水練の水練学校があり、3歳から6歳まで、そこへ通わされました。そこでは観海流の古式泳法を教えていました。
観海流と言うのは三重県津市が発祥の地らしいですが、日本水泳連盟が認定する古式泳法13流派のひとつで、基本は顔を上げて泳ぐ平泳ぎです。足はカエル足、手は浮くだけのために水面と平行にしてゆっくり水をなでるようにかきます。夏の熱い長浦の砂浜でカエル足の練習を嫌と言うほどさせられました。お蔭で小学校に上がるころには足のつかないところでいくらでも泳ぐことが出来るようになりました。もともとは戦国時代に甲冑を着て川や海を渡るための泳法ですから、水練学校の最終日には師範の先生たちが甲冑を着て泳いだり、立ち泳ぎしながら字を書いたり、両手両足を縛られたまま泳いだりと言った曲芸のような泳ぎも披露されました。
この話には後日談がいくつかあります。そのひとつは私が克君(時々このブログにも登場する2学年上の幼馴染で小さい頃は兄貴のような存在でした)に泳ぎを教えたことです。夏のある日たなば池と言う溜池で克君と遊んでいました。克君はその時金づちでした。私は平気で足の立たないところまで泳いで行き、立ち泳ぎをしてここは浅いよと克君を誘ったのです。克君は最初躊躇していましたが、2歳年下の私に誘われてはと私の方へ泳いで来て足がつかないことが判ると溺れそうになりましたが、何とか自力で足の着くところまで戻ることが出来ました。そうして克君は泳ぎを覚えて行ったのです。
2つ目の話は、私が京大の囲碁部に入って2年目の夏のことです。愛媛県の松山の近くの鹿島と言う島で合宿をしました。部長は3回生の大西さんでしたが、1回生も何人か参加していました。昼の休憩時間に浜で海水浴をしていたら、1回生の中に谷水と言うちょっと生意気なやつがいて、私が観海流の古式泳法をマスターしてどれだけでも泳げるんだと言うと、自分も小堀流踏水術をマスターしていると言う。それではあの沖に見える島(多分三河湾で言うと竹島から大島くらい離れていました)まで競争しようかと言う話になりました。 泳ぎだして約2時間くらいでその島まで無事二人とも泳ぎ着きましたが、部長に黙って行ったために二人行方不明になったと大騒ぎになり、戻ってから部長に二人ともお灸を据えられました。
3つ目は私が泳ぎを覚えるには3歳からと叩きこまれたために、私の子供4人には3歳になると無理やりスイミングスクールに放り込んだことです。純平、勝平は慣れるまで結構泣いて通っていました。鉄平は泣きたいのを必死でこらえていました。でも1か月くらいするとみんな水泳が好きになり、学校に上がってもみんな水泳部に入りました。